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新型コロナウィルス感染症は、予想をはるかに上回る感染力で、世界中を恐慌状態に陥れている。美術館やギャラリーの休館・閉鎖なども相次いでいる。このような情勢を受けて、当館では所蔵品によるオンライン展覧会を実施した。過去の仕事をを振り返る意味もあるが、カオスの状態となったこの地点からもう一度出発するという意図もある。静かな森で、作品と対峙する時間が、また次なる目標を与えてくれるような気もするのである。


〈1〉
「紙を追う少年/秋吉賢史・作」―あの日追いかけたものは―


関東地方に吹いた春一番ほどではなかったが、私たちの暮らす茶臼原台地にも強い風が吹いた。九州脊梁山地・米良山系から吹いて来る北西風に、南方の日向灘から吹き上げて来る暖かい風が混じった強風である。広い畑地で土埃を巻き上げ、枯れ葉を飛ばして吹きすぎてゆく。

「春一番」の語を採集し、世に知らしめたのは民俗学者の宮本常一だったという記事が、今日の毎日新聞のコラムに出ていて、それがフェィスブックにコピーされていた。壱岐・郷ノ浦の漁民がその暴風に巻き込まれて多くの遭難者を出したのだという。その後、季語として俳人に珍重され、気象用語として定着したのだという。春の訪れを告げる風は、北国では雪崩を引き起こし、日本海側の地方ではフェーン現象が発生し、火事が多発する。春の訪れを告げる風は少々荒っぽい。

パソコン付属のプリンターが壊れたので、近くのコンビニにコピーを取りに行った帰りに、この強風にコピーした書類を奪われて、追いかけた。思いがけず遠くにまで飛ばされた紙を追って駆ける老体は、幾分、滑稽味を帯びていたのではないか。パソコンもプリンターもコンビニのコピー機も便利至極のものではあるが、一瞬の風に攫われた書類は、虚空に不規則な軌跡を描いて駐車場わきの立木に引っ掛かり、追跡者の手に戻った。この紙面には、現在検討中の九州を一つのフィールドと見立てたアートプロジェクト(詳細は後日発表)の原案が記されているのだ。まだ発表もできないし、誰かに読まれることも本意ではない。手元に戻って一安心。

本日から茶臼原の森の一隅、古い教会を改装した「祈りの丘空想ギャラリー」でオンライン展覧会「春の森へ」を開催することとした。旧・由布院空想の森美術館時代に交流のあった作家の作品、旅先で入手した愛すべき小品、当地で出会った作家の作品などを季節ごとに展示してきて、すでに20年になる。コロナ過の世情は騒がしいが、春の森は静かである。少人数の来客には解放しておくことにしよう。

「紙を追う少年」(油彩・F4号)は故・秋吉賢史作。秋吉氏は、同郷(大分県日田市)の先輩である。心象を人物と風景に託して、情感あふれる絵を描いた。「抽象」と「具象」の概念が激突してしのぎを削っていた1960年代後半から1970年代へかけて素晴らしい仕事をした。
が「半具象」と分類されたその画風は、多くの支持者を得るまでには至らなかった。



この先輩の大規模な個展が故郷の町で開催された時、私は、その会場当番を受け持ち、2週間の会期中、受付に座って来客を迎えた。会場では、「抽象画」は何が描いてあるかわからぬ、いや、美人画や花鳥画などの自然を忠実に再現する技術だけが絵画ではない、抽象とは風や空気や心を描き表す絵画なのだ、という論議の中間に位置し、黙々と自身の画境を守った秋吉さんは、にこにことその議論を聴いていた。そして、会期が半ばを過ぎた頃、大きな黒い絵が並ぶ、誰もいない会場で、私はひそやかな声を聴いたのである。それは作者の手を離れた「絵画」が、なにごとか、信号を発しているのであった。その声が、身体的特徴や家庭の事情などを抱え、不遇をささやかれる作者の心の声であり、また、戦後の復興期という「時代」の声であるようにも思えた。私はこの瞬間、「絵が分かった」と思ったのである。言葉による解説は不要。一枚の絵に込められた作者の心象。それを読み取る「感受力」を私が身につけたのはこの時であった。


〈2〉
「西海の教会/中畑美那・作」―遠い祈りの声を聴く時―


人生、1ページ先は白紙だ、何が起きるかわからぬ。

ハガキ二枚大(F2号=サムホール)の小さなこの油絵を見るたびに、そんな感慨を覚える。

40年も前のことになるが、そのころ私は由布院の町の旧街道沿いの古民家を改装して、小さな古道具の店を開いていた。病を得て長い療養の時を過ごし、ようやく社会復帰をした、いわば再生への一歩を踏み出した場所であった。その頃はこの町を訪れて来る人も少なく、町は藍色に霞んで東洋の桃源郷のような情趣を漂わせていた。私はそこから仕入れの旅に出て、古伊万里の器や古布、古神像、古仮面、古民藝、民俗資料などを集めた。「もの」に呼び寄せられるように客が集まってきた。そんなある一夜、盆地の北方に位置する由布岳から吹き下ろして来る寒風とともに、コレクター田仲(でんちゅう)氏は、トラブルを持ち込んできた。当日の買い物の総額と釣り銭の額が合わない、というのである。私はそのような金銭のトラブルに巻き込まれるのは嫌いだし、面倒だから、

――あ、ご不審なら金額相応のものに取り換えるか、不足の金額にあうものをお選び下さい。

と答えた。その日はすでに数か月分の売り上げに相当する買い物を田仲氏はしてくれていたのである。一、二点のものなら旅の土産として進呈しても惜しくはないのであった。ところが、その応対が、百戦錬磨のコレクターには新鮮に映ったらしい。同じ町内にある老舗の骨董屋では、そんなことはありません、と冷たくあしらわれたというのである。

これを機縁に、田仲氏は毎月高額の買い物をしてくれる常連客となった。私はそれを励みに仕入れを続けた。まだ九州の田舎には途方もない逸品や世間の人が気づかない掘り出し物が眠っていたのである。ところが、私は、一度だけ贋物を掴み、それと気づかずに氏に売ってしまったことがある。後日、それが「新物」と呼ばれるコピー商品だと分かったので、交換の品を持って関西の田仲氏の自宅まで、訪ねて行った。が、氏は笑って、

――私もいい勉強をした。この壺は新作としても見どころがある。手元に置き、灰皿としてでも使いましょう、ところでそちらの唐津はお幾らかな。

という成り行きとなったのである。私は旅の手土産として、水指に仕立てられるほどの大きさの唐津の塩壺を進上し、一場は穏やかに収まった。そのあと、心斎橋付近のそれと知られた店で食事を御馳走になり、帰りにぶらぶらと歩いていた商店街の一画の画廊の中の一点の作品が、眼に止まった。会場に入ってみると、それは高齢の女性画家の始めて開いたという個展であり、どの作品も清新な空気が流れるような好ましいものであった。中でもこの小品が目を引き

――いいなあ、天草の隠れキリシタンが信仰したころの古い教会の印象だなあ。

と呟いた。すると田仲氏はさりげなく受付に行き、その絵をその場で買い上げて、私に

――九州への土産です。

と手渡してくれたのである。

この後、田仲氏がオーナーとなり、私が企画者となった「由布院空想の森美術館」の開設へと結びついたのだが、建設工事が始まった1週間後、田仲氏は持病の喘息の発作により心臓が止まり、急逝した。私は、分解の危機に直面した事業を引き受けてしゃにむに開館にこぎつけた。この美術館は、由布院の町の人気の上昇とともに多くの鑑賞者の共感を得て、自立した。そして全国へ波及していった個人美術館の設立、地域美術展の普及、「アートの町」と呼ばれるようになった由布院の町での活動など、一定の貢献をした。私はその経緯の中で、折にふれこの絵を展示し、眺め、天界の人となった田仲氏と会話したのである。

15年間の由布院空想の森美術館の運営の後、ここ宮崎の地に移転してきて、古い教会を改装した「祈りの丘空想ギャラリー」を開設してすでに20年の年月が経過した。時々、この絵をとりだして壁に掛けると、過ぎた日のあれこれが瞬時によみがえる。

この絵の作者は中畑美那。その他のことは一切わからない。この絵と過ごす穏やかなひとときがあれば、私には、作者の経歴のことなどは、分かった方がいいが、わからなくても困ることはない。

今回、写真撮影のため、およそ40年ぶりに(この絵が手元に来て初めて)額縁の裏蓋を外して、絵を取りだしてみた。すると「中畑美那・行動美術所属・大江天主堂」という裏書があった。それで、この作者のことが少しわかった。そして勝手に付けていた「西海の教会」というタイトルも的外れではなかったことがわかり、安心した。この絵に大阪の画廊で出会った時、私が聴いた讃美歌のような、あるいは遠い海から聞こえてくる潮騒のような響きは、やはり隠れキリシタンの哀史を秘める教会の空に流れる「とき」の音であったことも確認できた。

一枚の絵が、描かれたモチーフの裏に、はるけき物語を宿しながら旅を続けてゆく例を、私はいま眼前している。


〈3〉
「冬/金子善明・」―冬の森から春の野へ―



この絵は、由布院空想の森美術館開館後に書き溜めたエッセイが始めて一冊の本「空想の森から」にまとめられた時の表紙に使わせていただいた作品なので、ことさら愛着が深い。冬木立の中に降る雪。その静謐な空間の中を一羽の鳥が、何処へ向かうのか、一条の光を残して飛び過ぎる。その鳥の羽根にも、雪は降りかかっている。私は絵の中を逍遥し、空想の森に降る雪のかそけき音や、飛び去った鳥の羽音を聴いている。

作者の金子善明氏は、湯布院町湯平出身の画家で、私より一歳年上の先輩。由布院で仕事をするようになって知遇を得たのだが、古美術の世界にも造詣が深く、「眼の先達」としてつねに私の一歩前を歩き続けた方である。由布院の駅前通りから西へ入った路地のような商店街「花の木通り」の三坪ほどの店が、私が古道具・古民藝の商いを始めた出発点だが、ある日、近在の古美術商が集まる市場(オークション)で競り落とした一箱の古着を店に持ち帰ったところ、そこに丁度、金子さんが通りがかった。箱を開く私の手元を覗き込んだ金子さんは、

――おっ、これは素晴らしい!!

と感嘆の声を上げ、

――その布を一枚、僕に譲って下さい。

早速、交渉してきたのである。田舎の老人夫婦が出品し、買い手もつかなかったので、実際は競り合うほどのこともなく落札した箱の中には、手紬ぎ・手織りの縞木綿、古絣や丹波布など、古裂(こぎれ)の優品がぎっしりと詰まっていたのだ。金子さんの眼も早かったが、私はこれで自信を深め、以後の仕入れの基準となった。「眼筋が合う」というのはこのようなことだ。私も金子さんも、その時は古物商でもコレクターでもなく一人の鑑賞者として、古布を一点のすぐれたアートと捉え、その美を感受したのだ。昔、諸国を巡る求道の旅をした修行者や画人なども、おそらくはこの時の二人のような眼光を発していたのではなかったろうか。古裂やパッチワークなどのブームが来る前のことであった。



その後、私は由布院空想の森美術館を開館し、湯布院町全体で企画を行う「アートフェスティバルゆふいん」や金子さんの生まれた里である同町・湯平温泉の石畳が続く温泉街を使った「湯布院と山頭火」展などを続けざまに開催し、そのつど、出品や参加をお願いして、大変お世話になったのである。以後、奈良、大阪、東京等で行なった企画でお会いする機会があった。出会った初期の頃

――僕のいとこにサカタという骨董商がいる。貴男の眼筋に近い集め方をする男だから、会えば話がはずむでしょう。機会があったら紹介しておきましょう。

と言って下さったが、坂田さんとお会いする機会は実現しなかった。その坂田さんは、後にそのコレクションを慕って集まる数寄者たちから「坂田教の教祖」と呼ばれるほどの凄腕の古美術商となり、一時代を牽引した。数年前には、渋谷の松濤美術館で坂田さんの蒐集品と見立てによる企画展が開催された。

私はその展覧会を表敬訪問を兼ねて観に行ったが、坂田さんとは擦れ違いで会えなかった。そして、二人の歩いた道筋は少し違っていたのかな、という感想を持った。私は「仮面」と「神楽」に出会い、その調査・研究を兼ねた収集活動と、神楽を伝える村などへと波及してゆく「地域美術展」の企画と実施という方向へ進んだ。そのころ、私は坂田さんの活動が、「骨董」が特定のジャンルの人たちの手から離れて「日本美」という大きな枠の中で把握され、現代美術との合流を果たせないものかと思っていた。松濤での展示はその方向を示唆するものであった。「もの」が違い、居た場所が違い、出会った人々が違えば、各々が異なる道を歩むことはごく自然の成り行きというものだが、そこでもう一つ確認できたことがある。そこで確認できたことは、金子さんの眼の水準は、すなわち古美術・坂田級だったということであった。早春の光が降りそそぐ森の一角にこの絵を置いて眺めながら、私は、過ぎ去った時間を惜しんでいる。


〈4〉
「鳥の歌/作者不詳」―春の森に響いてくる歌声―




カザルスに「鳥の歌」という名演奏がある。

この絵を見るたびに、私はカザルスの「鳥の歌」を思い出すのである。絵と曲とは、無論、関係ない。

40年と少し前、私は長い闘病生活(白蝋病=学名は振動障害)の後、由布院の町の老舗旅館・亀の井別荘の庭内にあった喫茶店「天井桟敷」で働くこととなった。その喫茶店は、筑後地方の酒蔵を移築した古民家で、その二階部分と天井裏に改装を施して喫茶部門としていたのである。その壁面には本棚が埋め込まれ、ぎっしりと書籍が並んでいた。文学はもとより、音楽・美術・骨董・料理・批評・旅の本など、そのジャンルは多岐にわたり、いずれもこの屋敷の主の学識・教養を示すものであった。そしてその一番奥にタンノイのスピーカーがはめ込まれ、重厚な音を鳴らしていた。客席の主テーブルは、直径3メートル、厚さ15センチもある酒樽の底を利用したもので、その丸いテーブルを囲んで、旅人や音楽家、画家、詩人、作家などとともに地域づくりの運動家や地元の若者が集った。そこが「湯布院・町づくり」運動の発信源となり、拠点となったのである。私は珈琲を淹れながら彼らの声に耳を傾け、その論客たちの気勢を身に浴び、知識を吸収した。そこにあったレコードは片っ端から聞いたし、暇があれば本棚の横の席で種々の本を読み耽った。5年間の闘病生活の空白期を埋め、未知の領域に踏み込んでゆく楽しさがあった。夜が更けると、私は客たちに亭主自慢の酒を運んだ。そしてカザルスの演奏によるバッハの「無伴奏チェロ組曲」のシリーズを低音量で流し、時には「鳥の歌」もかけた。論客や酔客たちは、その天井から降ってくるような音に耳を傾け、その音の聞こえてくる方角をふり仰いだり、頷きながらまた会話に戻っていったりした。

この絵の作者は不詳。旧・後藤洋明コレクションが由布院空想の森美術館に「画中遊泳館」として展示・運営された時期があり、その後寄付していただいたものである。後藤さんと画中遊泳館・きまぐれ美術館のことなどは別の機会に語ろう。絵の右隅に印が捺してあるから、調べれば分かるが、今は作者のことを知る必要はない。

「鳥の歌」を実際に聴いたのは、「ゆふいん音楽祭」に出演した上村昇氏の演奏であった。上村さんは、当時、チェリストとして活動を始めて間もない時代だったが、すでに海外での演奏経験や受賞歴もあり、重厚ながらのびやかでふくらみのある音を響かせた。初期のこの音楽祭の実行委員として活動していた私は、いつもは楽屋裏で出演者たちの演奏をきくのだったが、この曲が始まる前に客席へ出て、一人の聴者として聴いた。そして、カザルスとはまた違った、日本人の繊細な感性による、たとえばセロ弾きのゴーシュが深夜に動物たちとともに奏でた音楽のような、夜の森の静けさに通う響きを受信したのである。

「鳥の歌」はスペイン、カタルーニャ地方の民謡であり、キリストの聖誕を鳥が祝っている様子という。この曲は、同地方出身のチェロ奏者で作曲家でもあったパプロ・カザルスの編曲・演奏によって、世界的に知られる名曲となった。カザルスはチェロの近代的奏法を確立し、深い精神性を感じさせる演奏で、世界の音楽愛好家の支持と称賛を得た。1971年、国連の世界国際平和デーでの演奏で、アンコールに応えてこの曲を演奏したカザルスは、「私の生まれ故郷カタルーニャの鳥はpease、peaseと鳴くのです」というメッセージを発し、多くの共感を集めた。このころ、スペインは内乱が続いており、時のフランコ独裁政権に抗議してピカソが描いた「ゲルニカ」は世界に衝撃を与え、カザルスの「鳥の歌」とともに内乱を終結へ導く旗印となった。芸術が、戦争を否定し、真っ向から論を挑み、戦争という人類のもっとも愚かな行為を収束させる例を、私たちは目撃したのである。


この絵の作者は不詳。旧・後藤洋明コレクションが由布院空想の森美術館に「画中遊泳館」として展示・運営された時期があり、その後寄付していただいたものである。後藤さんと画中遊泳館・きまぐれ美術館のことなどは別の機会に語ろう。絵の右隅に印が捺してあるから、調べれば分かるが、今は作者のことを知る必要はない。

古い教会を改装した「祈りの丘空想ギャラリー」に、先日、中学2年生のハルカさんが友人と一緒に来て、長い間、歌を歌っていた。コロナ過で学校が休みになり、公共の会場なども使えないので、ここに歌いにきたというのである。彼女たちの歌は、この空間によく響き、鳥の歌のように森へと流れていった。

鶯の初鳴きも聞こえてくるころだ。


〈5〉
「アルプハーラの教会/市村修・作」―教会へ続く道―




古い教会を改装したこのギャラリーに、この絵は良く似合う。折にふれ、取りだして展示するが、定位置がある。正面の西側の窓の下で、その上の明かり取りの窓から、西日が差しこむ季節が、もっとも美しい。

2010年にこの「森の空想ブログ」にこの絵のことを書いているので、再録しよう。

    

[市村修 スペインの白い教会(油彩F6号)]
 市村修氏は、岩手県出身の画家で、たびたびスペインを訪れて、長期間滞在し、絵を描き続けた画家だが、数年前にお亡くなりになったらしい。
カビレイラ村という白と青を基調とした村では、かなり長い期間その村に住み続けながら描いていたという。
氏の絵にほれ込んだ現地のコレクターや、通りがかりに出会った日本人の旅行者との交流などが断片的に記録されているが、今のところ、市村氏に関する情報は乏しい。
それから30年以上の年月を重ねて、市村氏の絵が、宮崎の地の、遠くに米良の山脈を望む古い教会を改装した「祈りの丘空想ギャラリー」に違和感なく収まっているのはうれしいことでである。
この絵は、コレクター・近代美術史研究家の後藤洋明氏からご寄贈いただいたものである。後藤氏とは、昔、銀座にあった「現代画廊」で知り合った。私(高見)も後藤さんも、画廊主の洲之内徹氏の美術エッセイ「気まぐれ美術館」の愛読者で、洲之内氏のもとに集まり、美術談義を交わした「気まぐれ党」ともいうべき一員なのである。後に、私が「由布院空想の森美術館(1986−2001)」を設立・運営していた時期、「画中遊泳法」というエッセイを美術館の月報に連載してくださった縁により、この絵が私の手元に来ることになったのである。2001年に同美術館が閉館になり、湯布院を離れることになった時、手放さずに宮崎へと持って移動した、大切な作品のひとつでもあるのだ。
 今回、市村氏の経歴を調べてみて、インターネット情報にはあまり詳しくは載っていなかったので、久しぶりに後藤氏に電話をしてみたら、彼は新幹線で「林倭衛(はやししずえ)」の遺作展準備のためどこかへ向かっている途中だということだったが、「帰ったら、市村さんの資料を送るよ」と言ってくれた。ますます元気な彼のことが嬉しく、資料の届くのが楽しみな日々である。      

昨日に続き、額縁の裏蓋を外してみたら、市村修氏のサインがあり、1977年という制作年と「アルプハーラの教会」という題名が記されていた。「スペインの白い教会」は間違いではないが、作者の命名とは異なるので訂正しておく。

さらにインターネット検索してみると、

『画家 市村修の原画です。 以下、購入経緯等をご確認お願い致します。 「1976年ウィーン植物園を母が散歩していたところ 一年おきにスペインへ絵を描きに来ていると仰る 市村修氏と出会い、意気投合し自宅へお招きし食事を振舞いました。 素麺などを食べた事がとても楽しい思い出のようです。 翌年、神田神保町の画廊で個展を開かれるとの事でご招待を頂き 伺った会場にてこの絵画と出会い購入致しました。 それから、この「アマポーラ咲くころ」はたまに拝見し楽しんでおりましたが 絵画も増えて来てしまったので、出品するに至りました。 気に入って下さる方にご購入頂きたいです。」 現在は、光に当たらぬ様しまってあります。』という掲示があった。これにより、市村氏は、コレクターや現地で知り合った人に愛された画家であることがわかる。その後、現代画廊でも企画展が開催され、そこで後藤さんは出会ったものだろう。

この旧・教会は、この地を開拓し、児童福祉の先駆的仕事をした石井十次とともに入植した人々の子孫が建て、信仰の場として使用した。その後教会としての機能が近くの町に移転したので空家となっていたものを、20年前に私と仲間たちが、所有者であり石井十次の遺志を引き継ぐ「石井記念友愛社」から預かり、改装し、企画展を実施しながら運営してきたものである。かつて開拓者たちと近辺に住む信者が静かな祈りを捧げた空間に、この「アルプハーラの教会」はふさわしい。

梅の花が満開である。

インターネット「メルカリ」に出品されている作品の価格は65000円。真筆であり、この「アルプハーラの教会」の連作と思われる。スペインの田舎の村の漆喰塗の白い家の壁と、手前にはささやかな麦畑が描き込まれた好ましい作品である。異郷の村で、無心に絵筆を走らせている画家の姿が目に浮かぶ。どなたかこの絵を買い上げてやって下さい(私にはいまのところ落札する経済力がないので余計なおせっかいをしたくなるのです)。ここ数日のニュースを賑わしている有名画家の版画の偽物が大量に刷られ、一枚50万円〜150万円で販売されていたという事例からみれば、気の毒なほど安価である。有名画家の作品であれば、複製であっても贋物であっても群がる人々がいる。画商や刷り師がハゲタカのごとくそれを狙う。ここには眼力とか、観賞力、絵画を愛好する心意等は皆無である。カネに芸術作品を換算するのである。あまりにも貧しいこの国のこの時代の風潮といえよう。そのような嘆かわしい現状の対極にこの一点の作品と、インターネット市場で売りにかけられている絵があるのだ。

その後、市村さんの資料が手元に届いたのかどうか、記憶が怪しい。まだ彼の手元に残ったままかもしれない。私も後藤さんも、そのような年齢に達したということだろう。


〈6〉
「関門海峡/高見乾司・作」―あのころには戻れない―




大がかりな片づけをしたら、古い鉛筆画が出てきた。1980年頃の作品だと思う。埃をかぶり、皺が寄り、端っこは折れ曲がっていたので捨てようかと思ったが、淡墨で修正を加えたら、蘇生した。海峡を渡る風や潮の流れる響きが聞こえてきた。

 引き潮は 平家潮てふ 雛流す 

関門海峡には、平家滅亡の伝承が今も残る。句は、雛を流して水底に眠る平家の武人や女御たちの霊にささやかな祈りを捧げようとする「まつり」であろう。この句に出会ったのは、小さな俳句賞の審査会で、私は、素人の感想でよければ、という前提で審査に加わり、この句をつよく推したが、受賞はしなかった。けれども、海峡の町に住む人の心象が投影されているように思い、今も忘れずにいるのである。激しく流れる潮が音立てて引いてゆくとき、海の底には船の残骸や鎧・兜を付けたままの武者、人馬の白骨、刀・槍・弓などが折り重なり、ゆらめき、見えるのである。作者のことはすでに忘却のかなたにあるが、句の「けしき」はいまだに私の心象風景の中に点景として定着している。海峡の岸辺には古い寺院があり、そこでは、毎年、平家物語を主題とした「能」が上演される。私はそれを取材に来て、海辺を歩き回り、高台に立ち、このスケッチをしたのであった。

ついでに、片付けの時に一緒に見つかった二点を、この古い教会を改装した「祈りの丘空想ギャラリー」に飾ろう。自作について語ったり、他の作家の作品と一緒に並べたりするのは、多少の遠慮と逡巡が伴うが、これもまた、画人としての歩みと心得のひとつであろう。私たちが師事した郷土の画家・宇治山哲平画伯は、

「画家が個展をしたり、他の作家の作品と並べて自作の方向性や力量を確認するのは大切な勉強の過程なのだよ」

と言っていた。誰もいない画廊で、一人自作と対話する時、画業に対する迷いが見えたり、これでよし、という確信が生まれたりするのだとも仰った。そんな高尚な心がけではないが、私も久しぶりに古い作品と対面する。そして、

――これはこれでいいじゃないか。

と思い、

――そうかと言ってこの時代に戻れるわけでもないからな・・・

とも思う。


これは国東半島の浜辺の風景。砂浜の果てに小さな砂丘があり、そこに打ち捨てられた廃船があった。近くには漁師が束の間の休息をとったり、あるいは夜漁に出かける前の寝小屋となったりする「浜小屋」があった。草ぶきの小さな小屋が海に向かって一列に立ち並ぶ、うら悲しくも懐かしい風景であった。そこに通い、スケッチをした時期の作品である。現場の空気感は定着していると思う。この時期、私は、美術誌「芸術新潮」に連載中だった州之内徹氏の美術随想「気まぐれ美術館」を美術修行唯一のテキストとして読み込んでいた。そのなかで、州之内さんの「成川君、あのころに帰れよ」という一節があった。画廊主で美術評論家の州之内徹氏と春陽会所属の画家・成川雄一氏とは親しい友人でもあり、二人で房総半島の浜辺で座り込み、酒を呑み、美術論を交わした仲であった。その頃の成川氏の仕事が良くて、現在は行き詰っている、成川君、あの頃の仕事に戻ったらどうだね、と州之内氏はいうのであった。30歳代の前半の私はそれに意義を申し立てる手紙を書いたのである。田舎の画家志望の青年であることは重々承知していた。が、そのことはことわりを入れたうえで、絵描きが元の場所に帰れるはずがない、迷いながらも前に進むしかないのではないか、という主旨である。その詳細は既著「帰る旅―空想の森へ」に記したのでここでは要約にとどめるが、私は、由布院を訪れた成川画伯を案内して一緒に写生をし、その真摯な作画態度に学ぶものが多かったから、そんな生意気な手紙を書いて、出したのである。すると、驚くべきことに、州之内氏本人が、その手紙を背広の内ポケットに入れて、由布院に現れたのだ。私は驚愕し、恐縮したが、手紙のことよりも、由布院で没した放浪の詩人画家・佐藤渓の発掘と当時由布院の町で起きていた「町づくり運動」をはじめとする多くのものごとへと州之内さんの興味と仕事が展開したので、私は心底、ほっとした。そして、怒ってはいないのだな、とひそかに安心もした。



これは、当時私が開設していた「由布画廊」での一コマ。仲間たちが集まった絵画教室である。長い闘病生活の後、社会復帰して得た仲間が貴重であった。少し遅れて訪れた青春時代というべき甘さも含んでいるこのころのことを思い返して感慨深いものがあるが、

――やはり、あのころには戻れないな・・・

と思う。この由布画廊へも州之内さんは立ち寄って下さった。そのことは次回。


〈7〉
「雪の日/高見乾司・作」―再生への道人生の・岐路で得た一点―



人生には、その方向を確定する「一言」というものがあるという。私にとっては、故・州之内徹氏の

――高見君、この絵があなたの本質だよ。

という言葉。

そのころ、私は長い闘病生活を終えて、由布院の町に職を得、暮らし始めていた。休みの日には、キャンバスを担いで写生に出た。藍色に霞む由布院の山野は眼に新鮮で、ただそこに身を置き、筆を走らせているだけで安らぎを覚え、心気が充実した。由布岳から吹き下ろしてくる雪交じりの冷たい風や、ふくらみ始めた猫柳の芽、春の訪れを告げる梅の花、山麓から山腹へと咲き上ってゆく山桜などは、古来、旅人や文人が愛した風趣であった。

少年期から絵を描くことへの憧れを持ち続けた私は、旅に出る時には必ずスケッチブックを持ち、行く先々の風景を写生した。旅先の風景とその印象、そこに流れる空気などが定着されていれば私には充分だったのだが、20歳を過ぎてから生まれ故郷の町の絵画教室に通い、本格的な絵の勉強を始めた後は、「印象派」「抽象画」「シュールリアリズム」「モダンアート」「前衛美術」などの理論や概念に翻弄された。それは未知の領域であり、旅先で人の足跡もない深い森に分け入って行く時のような探検家にも似た高揚感を伴って、その暴風のごとき渦の中に私を巻き込んだのである。公募展への出品と入選、地方から中央の団体展への出品。それらの活動は、当時の画壇を取り巻く情勢や、美術の動向と無縁ではありえなかった。良い仲間も得られたが、競争原理も働いた。地方の公募展や知名度の高い団体展への入選も果たしたが、どこかに違和感があった。四回連続入選を果たした二科の東京展を見るために上京中、京都で進路を西に変え、琵琶湖の西岸を北上して北陸へ出て、そのまま山陰を回って九州へ帰ったこともある。その時期に病に倒れ、5年間にわたる入院と退院・通院を繰り返す日々を過ごしたのである。それが、「絵画」に対する「構え」を捨てさせる作用をした。

その「再生」ともいえる日々の中で描いたのが掲出の作品である。由布院盆地のほぼ中央にあたる地点に、小さな教会堂のような建物があり、普段は誰もいない。私はそこへ行き、雪交じりの風の中でこの絵を描いた。

由布院盆地には、隠れキリシタンの遺跡が点在する。キリシタン大名であった大友宗麟の時代に、山間のこの盆地の村にもその信仰は普及して、禁教となったあともひそかに守り続けられてきたのだ。「寝墓」といって、墓石の台石に十字架が刻まれたものがある。信者は、先祖の墓を拝む行為で、禁じられた宗教を信仰し続けた。納骨堂を兼ねた小さな教会堂のような建物は、その由布院の信者たちの歴史を刻んだ、心の拠りどころとなる施設であった。

州之内徹氏は、画家・麻生三郎氏との約束により、放浪の詩人画家・佐藤渓の遺作を訪ねて由布院を訪れたのだったが、その過程で、私は、交流の機会を恵まれたのである。昨日の記事に書いたように、州之内氏宛に手紙を出した経緯もあった。それで、暗い押し入れの中から佐藤渓の作品を取り出し、東京へ送る絵を選定した後、

――君のアトリエも見せていただこう。

ということになり、州之内さんが「由布画廊」に立ち寄って下さったのである。由布画廊とは、古い散髪屋を改装したアトリエで、仲間たちの集まる絵画教室を兼ねていた。

雲の上の存在だった人が、現実に目の前におり、田舎のアマチュア画家の作品を観てくれると言っている、そのことだけで緊張が私の体の中を走った。州之内さんは、100号級の大作や、公募展出品作など、壁際に並べられた私の作品を、タバコを片手にじっと見つめた。そのタバコが短くなるほどの時間、「観た」のである。私には、気が遠くなるほど長い時間だった。そして、迷いの中で描いた抽象がかった大作や公募展入選作には眼もくれず、由布院の山野の中で描いた小品だけを選び出して、

――こっちが、君の本領だな。とくにこの絵が良い。フォーブの影響を云々する人がいるかもしれないが、画面に空気が通っている。現場に立っての一気呵成の仕事は、日本の文人画に通底する美学なのだよ。

とも仰った。これで、私はすべてを理解した。熟読していた「気まぐれ美術館」の中の「ことば」が、現実のものとしてそこにあり、その一本の旗のような、人生の指標となる言葉を、私はたしかに聞いたのである。以後、公募展への出品を止め、一人の旅の画人として生涯を送る覚悟が定まったのである。

ところが、その後いくつかの経緯を経て、私に「由布院空想の森美術館」の主宰者となる運命が巡ってきた。それゆえ、建築工事が始まった現場で、私はそれまで描きためておいた作品の大半を燃やした。過去のすぐれた作品や現役の大家、先輩や仲間たちの作品などを「見分ける」立場に立つのである。アマチュアの画家としての自分を厳しく判定し、決別する時だと判断したのであった。工事現場に立ち上る煙が、由布岳の山頂方面へと流れていった。その時、老母が涙を流しながら火の中から救出した数点がある。少年期から続いた一家の貧窮に耐え、闘病中でも描き続けた私の一つの時代に思いを馳せ、その作品への愛着の念が奔騰したものだろう。その数点の他に、どうしても焼き捨てるに忍びなく、手元に残した数点の作品がある。その中のひとつが、掲出の「雪の日」(油彩・F10号)である。




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