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文・写真 高見乾司

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       九州・民俗仮面と祭りへの旅
                         <二>
                      海神の仮面
                   

[1]塩土老翁がいた岬                

 邇邇藝命と木花咲耶姫の出会いの地・笠沙の岬と伝えられる野間半島を訪ねたのは、三月中旬のことであった。山桜の花が一斉に開花をはじめ、伝説の岬を一層神秘的にしていた。薩摩半島の西部にぽつりと突き出たこの半島一帯には、鑑真の漂着伝承などの数々の漂着事例もあり、南の海を航海する海の民が目じるしとした野間岳もあって、この地点こそ、邇邇藝命上陸伝承と実態とがもっとも近接する地点であるといえる。

けれども、現地には猿田彦がこの土地の先住の王であったとする伝承はなく、「邇邇藝命は野間半島で猿田彦と出会ったのではないか」という性急な見解は不適切だということがわかった。少しうつむき加減に、私は白波打ち寄せる黒瀬海岸を歩いたのだが、面白い発見もあった。黒瀬の浜に小さな石碑があり、それには、塩土老翁(またの名を事勝国勝長狭がこの土地で邇邇藝命一行を迎えた、いう記述があったからである。その情景は、かなり具体的に描かれていた。それによれば、塩土老翁とは、この土地にいた塩焚きの翁で、邇邇藝命が黒瀬の浜に上陸した時、自分の住む岩穴に案内し、塩俵の上に獣皮を敷き、山海の珍味を並べて迎えたのだという。そこが、邇邇藝命がはじめて宮居を定めた「宮ノ山」で、古来、土地の人は聖地と崇め、不浄のものは近づかないようにしたという。

塩土老翁は、記紀神話では、「山幸海幸」伝承に登場する。兄の海幸彦から借りた釣り針を無くした山幸彦が途方にくれているところを、海神の宮へと導く老翁神である。「日本書紀」神武東征の段では、「当方に美しき国あり」と教え、神武の決断をうながしている。いずれも、海潮の霊力をもつ海路の神すなわち海神の化身として顕れるのである。
野間半島・黒瀬海岸には「神渡」という地名があり、そこが邇邇藝命一行の上陸の際の通過地点だと伝えられるが、そこから少し内陸部に入った位置に「黒瀬」という集落がある。東シナ海の荒波が岸を洗う黒瀬海岸とは対照的に、小さな田と小高い山に囲まれた静かな里である。「笠沙郷土誌」は、この黒瀬集落の水田の中に「(しるし)の石」という石があり、塩焚きの翁の塩浜の跡と伝える。潮焚きの翁は、赤生木村神渡氏の遠祖で、その縁により神渡氏はこの塩竈の跡地を開墾し、代々これを所有してきたのだという。
 地図を広げてみると、この黒瀬集落は、野間半島の西寄り、野間岳の山麓に位置する。半島の付け根辺りが加世田市で、加世田市、金峰町、日置町、薩摩川内市一帯が、古代阿多隼人の居住地域である。阿多隼人は、大和王権成立以来、朝廷と密接な関係を持ち続けた。薩摩川内市には邇邇藝命を祀る可愛山陵があり、山稜を守る位置に建つ新田神社には、40cmに及ぶ猿田彦面と邇邇藝命に随従してきた五神と伝えられる「五伴緒(いつとものお)の面」が伝わる。日置町日吉神社には、「デオードン(大王殿)」と呼ばれる大人形が祭りの行列を先導するデオードン祭りが伝わる。野間半島を中心に少し視野を広げれば、邇邇藝命→猿田彦→古代隼人族と連環する時空がみえる。そして南へ目を転じれば、薩摩半島南端の開聞岳周辺に点在する「海神国」の伝承とも重複する。塩土老翁の故郷は、遠い海の響きを聞きながら、今も静かなたたずまいをみせている。

          

[2]豊玉姫の原郷をゆく               

 行く手に、夜の海があった。海に沿って続く細い道は、気まぐれにこの岬を訪ねた旅人を、海神の国へとうかのように、漆黒の海原に向かっていた。海上には、無数の星座が象嵌されていた。この夜、天空も海も重厚な漆絵のように暗かったが、その暗さゆえに、星はさらに光をあざやかにした。
突然、強い眠気に襲われたので、車を路肩に寄せた。そこは、小さな岬の突端で、松林に囲まれた空き地に木の長椅子が置かれていた。その椅子に仰向けに寝転ぶと、私はたちまち眠りに落ちた。松林の向こうは断崖であった。崖の尽きるところから海は始まっており、その海の黒と天の黒とを区切る境目に、一層、黒々と聳える山が開聞岳であった。浅い眠りのなかで、寄せては返す波の音と、「神舞(かんまい)」の囃子の音とが、心地よく交響していた。

鹿児島県開聞町枚聞(ひらきき)神社の神舞は、翌日に行われる「ほぜ祭り」の前夜祭として奉納される。「ほぜ」とは、「放生会(ほうじょうえ)」のなまったもので鹿児島県を中心とする南九州に分布する。養老四年(720)の「隼人の乱」で征圧された隼人族の霊を鎮めるために始められた祭りで、「デオードン(大王殿)」「弥五郎どん」「鼻高どん」「猿田彦」「神王面」などが祭りの行列を先導する。いずれも大和王権を樹立した天孫族と南九州先住の民・隼人族との関連を示す。
 記紀神話の「山幸・海幸」伝承では、兄の海幸彦から借りた釣り針をなくし、途方にくれる山幸彦に塩土老翁が、「綿津見宮」(海神の国)へ行くように示す。山幸彦は、塩土老翁の指示に従って海神の国へ行き、豊玉姫と出会うのである。薩摩半島笠沙町の野間岬周辺には、高千穂から笠沙岬へと至った邇邇藝命を塩土老翁が迎えたという伝承や、邇邇藝命が木花咲耶姫と暮らしたという「宮ノ山」、木花咲耶姫が山幸彦・海幸彦を生んだ場所とされる「無戸室(うつむろ)」、山幸彦・海幸彦が争ったと伝えられる「仁王崎」などがあることから、塩土老翁と山幸彦の出会いの地も、この薩摩半島のいずれかの地点であると想定される。そして、地元に残る、「記紀神話にいう海神の国とは、開聞岳周辺である」という伝承もまた、説得力をもつ。

夜の海を、私は漂っていた。ゆらゆらと波に揺れながら、陸から遠ざかったり、また陸地へと返す波に運ばれたりしていた。私に寄り添い、異界へと私を連れ去ろうとしているのは、伝説の女神・豊玉姫だと思われたが、その顔は、先ほどの「ほぜ祭り」で巫女舞を舞っていた娘に似ていた。南国の海辺で、私は甘美な夢との間を漂流していた。
翌日、「ほぜ祭り」の行列と一緒に開聞岳の麓を歩いた。薩摩半島の南端に位置し、洋上に屹立する開聞岳は、古来、南の海を往来する海人族の信仰を集めた。中世には修験道の霊山として栄え、麓の町は南方貿易の拠点としても隆盛をきわめた。「ほぜ祭り」を伝える枚聞神社は、この開聞岳を御神体とする。猿田彦に先導された祭りの一行は神社を出発し、岬をゆったりと巡るのである。行く先々で村人が向かえる。そこに、笑顔の翁と、昨夜の夢に出てきた娘さんによく似た女性がいた。祭りの背後には、開聞岳が悠然と聳えている

                  

[3]海幸彦はここにいた              

 二十数年前、私は長い療養生活を送った後、湯布院町(現・大分県由布市)の寂れた裏通りの小さな家を借り、古道具を扱う店を始めた。そして、南九州を巡る旅に出た。療養中に知り合った同病の患者の故郷を訪ねて旧交を温め、当時は「白蝋病」と呼ばれた未知の病の実態を調査しながら、古民具や民俗資料を収集する目的であった。海辺の町を走り、峠を越えて深い山に分け入り、小さな村を訪ねて、口数の少ない老人たちに会う旅の収穫は多くはなかったが、ある村で、眉毛が渦巻きを巻いている黒い仮面に出会った。
 「これは海神の面じゃ」と老人は言った。若い頃、その面を着けて海幸彦の神楽を舞ったことがある、というのであった。数年後、老人の死亡通知と一緒に、その仮面は私宛に送られてきた。

記紀神話の「山幸海幸」伝承は、南九州を舞台とした美しい物語である。そのあまりにも有名なストーリーをここに採録することは省略するが、この一連の物語には留意しておくべき幾つかの特徴がある。
@日向の高千穂に天下った邇邇藝命が、笠沙の岬で出会ったのは、その土地の神・大山津見神の娘である木花咲耶姫(またの名を神阿多津姫すなわち阿多隼人の女神であること。A山幸彦(山神)と海幸彦(海神)の兄弟神による釣り針交換の話は、インドネシアなど黒潮文化圏に分布する古い神話であること。B山幸彦を綿津見国(海神の宮)へと導くのは塩土老翁事勝国勝長狭と呼ばれる土地神であること。C山幸彦が豊玉姫と出会った海神の宮は薩摩半島南端の開聞岳周辺であるという伝承があること。D山幸彦が、綿津見神(豊玉彦)から授けられた塩盈玉塩干玉は海神の呪力を持つこと。E山幸彦との争いに敗れた海幸彦は山幸彦に服属する(俳優となる)ことを誓い、隼人の祖となること。

さらに、海幸彦の物語には記紀に記録されていない後日談がある。山幸彦との戦いに敗れた海幸彦は、漂流の果てに潮嶽(現在の日南市北郷町北河内)に漂着し、晩年をこの地で過ごした。現在は山に囲まれた静かな里だが、当時はここまで鵜戸の海が続いていたのだという。土地の人々は、この地で没した海幸彦を手厚く祀った。それが潮嶽神社である。

 潮嶽神楽は、この潮嶽神社に伝わる。春の気配が里に満ちる二月初旬の午前十時ごろ始まる「春神楽」である。拝殿には、十数頭の猪の頭が供えられており、古式の巫女舞が奉納された後、境内に設えられた舞庭(御神屋)に舞い人たちが出て、賑やかに神楽が始まるのである。舞庭の奥に竹の鳥居の立てられた祭壇があり、五色の御幣が飾られている。舞庭を囲んで青竹に結びつけられた十四本の幡と、中央に吊り下げられた天蓋に、それぞ神名が墨書されている。藁薦を敷き詰めた神庭を、暖かな春の陽射しが照らしている。
 神楽は静かな神事舞「一番舞」で始まり、「二番舞」から白を基調とした重厚な鬼神、緑色の鬼神などが次々に登場する。火の神を思わせる造型、海潮の音が聞こえるような、彫りが深く皺の多い造型など、いずれも霧島面の特徴をそなえている。このあと、いよいよ「海幸彦」が出現するのである。

                 
[4]海幸彦の末裔が舞う               

北郷町北河内・潮嶽神社に伝わる潮嶽神楽は、古くは三十三番を上演していたらしいが、現在は十二番の奉納となっている。部分的な省略もあって、午前中に始まった神楽は、淡々と番付が進み、昼食を兼ねた直会がすむと、すぐに黒い道化面が登場する。この黒い仮面が、海神の仮面なのか、田植え祭り系の黒い翁面なのかがよくわからない。棕櫚で作られた笠を被り、すりこ木を持った男神が、観客に「へグロ」(竈のスミ)を付けたり、男根に見立てたすりこ木を駆使して性的な演技をしたりして、会場を爆笑と興奮の渦に巻き込むのである。この黒い道化は、その次の演目「釣舞」と連続している。そしてこの釣舞こそ、「海幸彦の舞」と土地の人が呼ぶ舞なのである。

「釣舞」の仮面は、端正な「若男」の仮面である。長年の使用による古色が面に寂びた美しさを与えている。南国の春の陽射しを浴びて登場した海幸彦は、ひときわあざやかに耀きを放ち、登場する観客から一斉に拍手が起こる。多少の異論は出るかもしれないが、私は、この「釣舞」に使用される仮面を地元の伝承に従い、「海幸彦の仮面」と呼ぶこととする。私が二十数年前に出会った仮面と同じとはいえないが、同系統のものだといえなくもない。私は夢中でシャッターを切り続けている。

海幸彦は、釣り竿を担いで登場する。そして、その釣り竿を担いだ姿勢のまま、舞庭(御神屋)を右回りに回り、中央に帰って唱教(神歌)を唱える。次に、釣り竿の中ほどの部分を左手で支え、右手で竿の手元を持って、ぐるぐると竿の穂先を回す。そして、扇を開き、右の耳に当てて遠い波の音を聞くような所作をし、さらに、左膝を立てた片膝立ちの姿勢で、扇を広げ、波を呼んだり返したりするような所作をする。これを、それぞれ三回繰り返す。これが、海幸彦の舞である。唱教は、ここではよく聞き取れなかったが、霧島の神を称える歌から始まり、鵜戸神話と海の物語を説く内容であることは、後述(次号)の「宮浦神楽」の「釣舞」との共通項により、推測することができる。そしてこの海幸彦の舞の最初に舞われる、釣り竿を担いで舞庭を一周する舞こそ、この連載で注目してきた米良神楽の巫女舞「神和(かんなぎ)」や後述する鹿児島県霧島市隼人町の鹿児島神宮に伝わる古式の「隼人舞」と共通する所作(舞い振り)なのである。
 「海幸彦の俳優(わざおぎ)」について古記録を簡略にみておこう。山幸彦との戦いに敗れた海幸彦は、「古事記」では、『「今より後、昼夜の守護人となりて仕える」と誓い、その溺れる時の種々の様子を演じて仕えた』となっており、「日本書紀」(一書第二及び別伝)ならびに(一書第四)には『「子孫の末々まで、俳人(わざひと)になる」「狗人(いぬひと)として仕える」「フンドシをして赤土を手のひらに塗り、海溺れの様子を再現し、俳優の民となると誓った」』などという記述がある。また七世紀には隼人の子孫が宮廷に歌舞を奉納したことが、「日本記」「続史籍集覧歌舞品目」などに記されている。これらの事例により海幸彦の俳優の舞(服属儀礼)と古代隼人族の芸能が日本の古代芸能の発生と深く関連し、現代の芸能のなかに脈々と生き続けていることがわかるのである。


[5]海人の神と芸能の神               

日南市宮浦神楽の「魚釣り舞」では、「魚釣り面」を付けた舞人が、右肩に釣竿を担ぎ、てのひらを胸の前で前方に向け、ぐるぐると渦巻きを起こすような所作をしながら、御神屋を回る。一周ごとに神歌(唱教)を歌う。次に、釣り竿をぐるぐると回すような所作と扇と両手で渦巻きを起こすような所作、さらに扇で波を寄せたり返したりするような所作をする。それぞれ、右回りに三周、左周りに三周し、そのつど、神歌を歌うのである。その内容は、鵜戸の海を誉める歌から始まり、天神五代、地神七代の物語などを説いた後、
 『かのつりばりを魚にとられ、龍の都に訪ねいり、豊玉姫にちぎりをこめ、それ水晶のかんじまんじの玉をそえり、ほどなくかいじんにて王子いちにんもうけたもう、かのじをまいりだし、云うものしじょうに拝ませ申さん。』『まだあづみの底までも月の光には、むにすむ虫もあわれぞする』
 と歌う。これにより、潮嶽神楽の「釣舞」(前号で紹介)とこの宮浦神楽の「魚釣り舞」が対応関係にあること、宮浦神社が鵜戸神宮に近く背後に玉依姫を祀る陵墓があることなどから、この演目が山幸彦の物語を語っていることなどがわかるのである。したがって、海幸彦を祀る潮嶽神楽の魚釣舞が海幸彦の舞であると解釈することも不自然ではない。最終章に「あづみの底」という表現があることも注目に値する。

この連載中、私は薩摩半島西端の野間半島(笠沙岬と比定される)から最南端の開聞岳周辺を巡り、日南海岸の鵜戸の海周辺を訪ねた。そこは、記紀神話の天孫降臨伝承、山幸海幸伝承などの分布地であり、古代隼人族の居住地域であり、「海神」の国であった。
古代海人族と「海神」の関係を大まかに見てみると、

@南風(ハエの風)に乗って黒潮文化圏を往来した隼人族と綿津見神、A玄海灘・日本海流に乗り瀬戸内周辺を支配した宗像海人と安曇の磯良、B大和王権と関連しながら勢力を伸張した伊勢海人と住吉神、C中国沿岸から日本列島周辺にかけて航海した漂海民と媽祖神などがイメージされる。もとより、国境や境界をもたなかった海人たちは、それぞれ交流し、文化も移動の範囲も信仰形態も複雑に交錯しているが、この旅では、以上のことを念頭においておけば十分である。笠沙岬で邇邇藝命を迎え、山幸彦を海神の宮へ導き、その後、猿田彦や塩釜の神などど習合し、全国的な信仰へと分布をみせる塩土老翁。海神の娘・豊玉姫と結ばれ、天孫族の祖神となる山幸彦。山幸彦との戦いに敗れ、隼人の祖神となり、土着する海幸彦。彼らの活躍の舞台は、東シナ海に面した薩摩半島一帯から黒潮寄せる日向・日南の海へかけての地域だったのだ。

海人族の祀る「海神」の習俗は、古代隼人族の祭祀儀礼と重複し、南九州を舞台とした「日向神話」と密接に関連し、古代記録「記紀」に記されない「南の記憶」というべき信号を私たちに向かって送り届けてくる。私の旅は、そのひとつひとつを丹念に調べ、「正史」と照合しながら、「地域の歴史」を掘り起こす旅でもある。南九州に分布する不思議な仮面たちが、さらなる深部――海人の神と芸能神の故郷―――へと私を導く。

          

*この文は、西日本新聞宮崎県版「みやざき/民俗仮面と祭り」(2006年6月8日〜7月5日)に連載されたものです。仮面を巡る旅は、「王の仮面」のページへと続きます。

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(SINCE.1999.5.20)