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[1]秦氏と都農神社の神面

 宮崎県都農町・都農神社に秦河勝(はたのこうかつ)が奉納したという伝承をもつ仮面があるという。それがどのような仮面か確認したくて都農神社を訪ねた。一度目は、冬季大祭の日で、神楽が奉納されていた。寒い日で、境内に客は少なかった。次に訪ねたのは、夏の夏越祭りの日で、二体の鬼神面(猿田彦と手力男命)に先導された祭りの一行が、近くの浜へと巡幸するところであった。私は神楽の場に身を置き、夏祭りの行列と一緒に歩きながら神面について話を訊く機会を狙ったが、その時間は得られなかった。
 三度目にようやく永友元夫宮司さんにお話をうかがうことができた。初秋の日が遠い尾鈴の山嶺を輝かせ、ツクツクホウシの声が神社の森に響く静かな日であった。神面なので公開は出来ないということだったが、宮司さんは写真資料などを探し出し、丁寧に説明して下さり、さらに、宮崎県文書センター保存の古文書に記録資料があることを教えて下さった。そして入手した資料が写真1である。文書には、「推古天皇の御宇、秦河勝が諸国に奉納した内の一面」という記述がある他に詳細を伝える記録はなかった。けれども、丹念に描かれた図面を注意深く見れば、その全体像を想像することはできる。全面に赤い彩色が残り、口は大きく開かれて、下を向いた長い牙がある。目には銅版がはめ込まれた形跡があり、当時は金色に輝いていたと思われる。

私は、その絵図を見つめながら、数日、考え続けた。そして、都農神社の神面は「追儺」の祭りに使われた「鬼」であろう、と推理した。追儺の儀礼は、古代中国で発生し、わが国へも伝わり、宮中の儀礼として行われた後、奈良時代には国分寺の建設とともに各地に分布、一時下火になるが、平安時代に密教の普及とともに復興した。大宰府天満宮「鬼すべ」、大分県国東半島「修正鬼会」、兵庫県神戸市性海寺「鬼踊り」、同加古川市鶴林寺「鬼追い」、奈良東大寺「修二会」、奥三河の「花祭り」等がそれで、なかでも、性海寺の赤鬼、鶴林寺の赤鬼などは、ほぼ類似の造型を示す。秦河勝が奉納したという都農神社の神面は、これらの鬼面に連なるものであろう。秦河勝は聖徳太子に仕え、芸能を司る職掌であったと思われることから、各地の有力な神社への仮面の寄進も不自然ではない。そしてその時期とは、八世紀のことであるから、正倉院伝来の伎楽面(渡来仮面)を別にすれば、この仮面は、民間に伝わる芸能仮面としては現存する最古級の仮面である可能性が高い。

 秦氏は、「秦の始皇帝」を始祖とする伝承を持ち、能楽の完成者「観阿弥・世阿弥」を生んだ観世家の始祖であるとされる。世阿弥は「風姿花伝」で、「」は聖徳太子作になる「六十六個の面」を使って「六十六番の物まね」を演じたことにより申楽の祖となった、と書く。世阿弥の女婿で世阿弥の能楽論の継承者である金春禅竹の「明宿集」には、太子が秦河勝に与えた一面は「鬼面」であり、能楽の根本の面であるとも書かれている。
 都農神社は、古来日向国一之宮と称えられる古社だが、天正六年の大友・島津軍の騒乱の折り、戦火に遭い、秘宝・文書などを焼失した。米良山系尾鈴山中に難を逃れた御神体とわずかな宝物だけが残ったが、秦河勝奉納の神面(写真・下)もそのひとつであったと思われる。

                   

[2]受難の仮面と北方鬼               

2001年5月、私は、「由布院空想の森美術館」(1986−2001)を閉館し、雑多な荷物と300点の「九州の民俗仮面」をトラックに積み込んで、二十数年間を暮らした湯布院の町を離れ、若葉が光り輝く茶臼原の森に到着した。同館は、九州の民俗仮面の収集・研究・展示を核とした美術館として高い評価を得ていたのだが、バブル期に周辺の森の乱開発を防ぐ目的で土地を購入したことなどが要因となり、経営が悪化したのだ。私がたどり着いた場所は、宮崎県西都市と高鍋町、木城町の三つの町が境を接する神話のふるさとであった。東に太平洋―海神の国―の潮音を聞き、西には分厚い神楽の分布地帯である九州脊梁山地―山神の国―を望み、西都原古墳群を中心とした大古墳地帯―神々の眠る国―の中心部に位置するこの地は仮面たちの源郷でもあったのだ。おおらかな大地と暖かな人たちに迎えられて、私は癒され、元気を回復した。

 その後、私は、ダンボールの箱に詰め込まれた300点の仮面と起居をともにした。仮面たちは、特に文句も言わず、部屋の片隅で鎮まっていた。半年後、大分から追いかけてきた税務署の職員によって一時差し押さえの標識を張られるという受難も経験した。翌年の2003年には日本民藝館(東京駒場)での「九州の民俗仮面展」が実現し、晴れ舞台に立ったが、その年、仮面たちは所有者である私の友人の手元に引き取られるかたちで、湯布院へと逆戻りしてしまった。私の手元には、1点の仮面も残らなかった。私は心ならずも――人間本来無一物――という枯淡の禅僧に似た心境を味わうこととなった。

ところが、その直後に、インターネットオークションに出品されていたという一点の仮面を入手する機会を得た。それは、大分県国東半島日出町の神社に伝わっていた神楽面で江戸中期ごろのものと思われた。裏面に「北方黒鬼」と墨書がある。様式化された鬼神面で、前号までに登場した「伊賀の四鬼」とも類似する造形であった。この仮面こそ五行神楽の「北方神」であった。友人所有となったコレクションのなかにも日出町で収集された「東方鬼・文政二年」の刻銘の入った仮面がある。同町「藤原神楽」には五色の仮面の舞いがある。岡山県美星町「備中神楽」などにも五行の神楽は分布し、大分県九重町「玖珠神楽」には、高千穂から伝わったとされる「五穀舞」という演目があって、五行の神がそれぞれ五穀を持って舞い、五方の名乗りをあげる。高千穂神楽にも「五穀」でも五方の神が五穀を持って舞う。これらの「五行の舞」がすべて鬼面でもなく五色の仮面というわけでもないが、それらが一連の仮面であるということはあきらかである。

一度無一物になった私は、この「北方鬼」を入手したことによって、神楽面にも五行の仮面が存在するというということを確認することができた。そして、それを契機に、九州山地の「宿神」と思われる鬼神、縄文の系譜をひくと思われる「閉眼の王」や「黒い女面」などが集まってきた。そして300点の仮面たちも、所有者からの借用というかたちではあるが再び私のもとへと戻り、今は「九州民俗仮面美術館」の壁面で、満足そうな笑みを浮かべているのである。

                     

[3]陰陽五行思想と鬼面

黄金色に色づいた稲田の中で、青鬼に追いかけられていた少女が、逃げ切れずに捕まった。田も畑も、四辺の山も、瞬時、紫の光に包まれ、暗転した。鬼は、少女を軽々と抱き、どこかへ連れ去ろうとする。神社の鳥居は傾き、幟幡がはためく。
 大分県九重町「玖珠神楽」の「十二鬼」では、御先、荒神、赤鬼・青鬼、瓢軽なしぐさをする鬼などが次々に登場し、神主や村人を追いかけたり、相撲を取ったり、若い女性に抱きついたりして神楽の場を撹乱し、やがて集落の中へと走り出る。そして村の子供たちを追いまわしながら、集落を巡るのである。追いつ追われつするうち、鬼と子供たちは仲良しになり、やがて神社へと帰ってくる。少女は、青鬼と手をつなぎ、笑っている。
 鬼たちが神社へ戻ると、「八鉢(やつばち)」という田の神と山の神が登場する演目があり、続いて、「五穀」がある。この演目には、東方神・久々能智命(稗の神)、南方神・加具土命(粟の神)、西方神・金山彦命(黍の神)、北方神・水波能売命(豆の神)、中央神・埴安命(稲の神)の五神が次々に登場し、五穀の舞を舞うのである。五穀の神は、それぞれ五色の仮面(緑・赤・白・黒・黄)を着けており、東方神から順に
―東方に向かいて方をたずぬれば、方はひのえ、ひのとの方なり。さあればこのほうの大神は久々能智命と申す。大神に礼拝をしたてまつる、五穀成就したまえ。
 と神歌を歌う。この玖珠神楽は江戸初期ごろ高千穂の神官が伝えたという記録があり、出雲神楽や豊前神楽などの要素を混交しながら、高千穂の古形も残す。高千穂神楽にも「五穀」という演目がある。高千穂の五穀とは、倉稲魂命大田命大宮売命保食神大己貴命の五神で、それぞれ米、稗、粟、豆、麦を持ち、
 ―天よりも、五穀たばねてわれ来たよ。五穀の主とは吾をこそいう
 と神歌(唱教)を歌いながら舞う。これらの事例により、五行思想を下敷きとし、五穀成就の祈願をこめた神楽が玖珠や高千穂に伝えられていることがわかる。

五行思想は、古代中国で生まれた思想で、万物は木・火・土・金・水の5つの要素から成り、互いに影響を与え合う、という考え方である。その起源は、春秋戦国時代にまでさかのぼる。宇宙の真理と天地の合一を「五行」理論で解明しようとする五行思想は、天文の観測にもとづく星宿信仰とも関連する。戦国時代の末頃に天を陽の気、地を陰の気ととらえる陰陽思想と一体で扱われるようになり、「陰陽五行説」となった。さらに、前漢中期ごろに成立した「道教」と習合し、後にインドから渡来した密教や仏教とも混交して、陰陽五行思想は中国・アジアの根本思想となる。
 
五行思想、道教などの知識と製鉄・稲作の技術を持ち、渡来した集団を、九州先住の民は「神」として迎えた。それが天照大神を頂点とする「天神」であり「穀神」である。一方、先住の神は山神、海神、荒神、鬼などとして怖れられ、鎮められ、封じ込まれた。けれども、祭りでは主役級の位置を獲得し、村人と交歓し、天神と和解する。玖珠神楽の荒ぶる神「十二鬼」も、土地神の残像をとどめながら、秋の村里を行く。



[4]変面劇と「五伴緒面」

 旧式のバスが雲嶺山脈を越える時、萩の花が風に揺れているのを見た。雲南の山々は茫々と広がり、その果てさえ見えなかったが、小さな花が私の目を楽しませ、故郷の村を思い出させた。中国西南部に位置する雲南省の古都麗江を訪ね、さらに大理古城へと向かう旅の途上であった。 麗江では、先住民族ナシ(納西)族に伝わるトンパ文字という古代象形文字が生活の中に生き続け、九州山地の神楽に似た祭祀が行われることを知った。山の村では、黒い衣装を身に着けたミャオ(苗)族の婦人たちが、山神・地神に祈る祭りに出会った。そして、古城に囲まれた町・大理では、ペー(白族)の白銀製の仮面に出会い、()の追儺の祭りに使用される鬼の面を買うことができた。鬼の源郷を訪ねる旅は、収穫が多かった。

 この旅の基点となった四川省の省都・成都では、三国志の物語にまつわる劉備玄徳の陵墓や諸葛孔明を祀る武候祠を訪ねた後、「変面劇」を見た。「変面」とは、五色の仮面が、瞬時に変化する仮面劇のことで、太い隈取りで彩色された緑・赤・白・黒・黄の五面が目にもとまらぬ早業で、一瞬の間に早変わりするのである。しかも、赤色の面は、ごうっと火を吹いて、観客の度肝を抜く。この変面劇は、古代中国の史書に記録される伝説の王「黄帝」、祭りの先導神「蚩尤(しゆう)」、仮面劇の祖神「方相氏(ほうそうし)」などの流れを汲む演劇であろう。
「黄帝」とは、およそ五千年前の古代中国に栄えた「夏王朝」の王のことで、文字の使用開始者とされ、天文・暦学・薬学などの始祖ともいわれる。前漢時代の史書「漢非子(前280233頃)によれば、黄帝は『鬼神を泰山に集め、象車に乗り、六龍をつなぎ、木の精の「畢万(ひつまん)」を横に従え、軍神の「蚩尤」が先導し、風伯・雨師・虎狼・蛇神・鳳凰などを従えて行進した。鬼神は後方を守った』とあり、当時、すでに五行の思想や善鬼が悪鬼を追う「(ヌォ)」の儀礼が発生していたことがうかがわれる。春秋時代の史書には、この蚩尤の役割を「方相氏」が演じる儀礼(神楽の原型ともみられる演劇)が発生する。方相氏は、黄金の四つ目の仮面を被り、熊の毛皮を着て祭りの行列を先導した。

 この五行の儀礼が日本へ伝わったのがいつの時代であるかははっきりしないが、ひとつの事例として邇邇芸命伝承に付随する「」があげられる。この五伴緒面とは、薩摩川内市可愛(えの)山稜を守護する位置にある新田神社に伝わる五色の仮面で、邇邇芸命の天孫降臨の折、随従してきた五神であると伝えられることから、天孫族=大和王権を樹立した民族が、彼等の祭祀儀礼とともに持ち込んだものと考えることができる。可愛山稜は、邇邇芸命を祀る陵墓で、新田神社には、この他に本殿内部に飾られている神面(宮司以外は見ることを許されない)、火の王・風の王・水の王、鎌倉時代に鉾に取り付けられ領内を巡幸したという記録のある猿田彦(約45センチ)の大仮面などが伝わる。
 南さつま市笠沙町・笠沙岬には、漂着した邇邇芸命が上陸し、舞を舞ったという伝承を残す「舞瀬」という地点もある。南九州に渡来(降臨)した天孫族(邇邇芸命一行)は、五行思想や方相氏の儀礼、神楽の原型と思われる祭祀儀礼などを持った民族であった。



[5]奥三河花祭りの里へ

 天竜川は、長野県の中央部に位置する諏訪湖を源流とし、伊那谷を流れ下り、愛知県、静岡県を流れて、遠州灘・太平洋へと注ぐ。多くの支流を集め、伊那山脈と南アルプスに挟まれた急峻な山岳地帯を通り抜けるため、流速は速く、洪水を繰り返し、古くから「暴れ川」「暴れ天竜」の名で知られた。流域に、三信遠(奥三河・信州・遠州が境を接する地)と呼ばれる地域があり「花祭り」「霜月祭り」「冬祭り」「田楽」などの芸能を伝える。

 この奥三河地方に伝わる「花祭り」という美しい名を持つ祭りを訪ねたのは「豊田市民芸館」(愛知県豊田市)で開催された「九州の民俗仮面展」(2004年9月〜11月)を終えた後のことであった。同館は、清流矢作川のほとりにあり、深い森に囲まれた静かな場所で、近くには、古戦場や史蹟などが点在し、奥三河地方にも隣接していた。会場に展示された九州の仮面たちは、芸能史の源流部に位置する土地を訪れたことを喜んでいるふうで、生き生きと輝いて見えた。訪れた鑑賞者にも芸能を伝える人や研究者が多く、
 「ぜひ、花祭りを見に来てください」
 と誘われたのである。私は、九州の神々に先導されるかたちで、奥三河の地を踏んだ。
 矢作川を遡上し、峠を越えて天竜川水系に入ると、たちまち谷は深くなり、紅葉の始まった山塊が前方にそびえた。澄んだ清流にひらめく魚影は、山女魚であった。静岡県東栄町足込の花祭りの会場は、真っ赤な紅葉に彩られていた。

 「花祭り」とは、中世(鎌倉時代頃)、天竜川を遡上した熊野の修験者が伝え、後に加賀・白山信仰、信州・諏訪信仰などが混交し、神事性の強い芸能として伝えられたものと考えられている。「花」の語源については、@神仏の依り代となる榊や樒などの常緑樹やそれに取り付ける御幣などを「花」と呼び、呪具としたことA「稲の花」の成熟を祈願する「花育て」の儀礼B「花は成り物の象徴」とし、五穀豊穣を祈るC花山上皇入山伝承にちなむ権現信仰などがあげられている。いずれにせよ、これらの要素が混交し、五穀豊穣、生まれ清まり、子孫繁栄などを願う祭りとして伝承されたものである。
 祭りは、山中の熊野神社での神事、村の水源にあたる小滝から清め水を頂く「滝祓い」、当日の花宿の裏手の小高い場所に結界を張って悪霊の進入を防ぐ「高嶺祭り」、平地に弊を立て地霊を払う「辻固め」などの神事が行われ、当日の花宿に一行が到着し、始まる。
 花宿(神楽宿)の中は、青(緑)・赤・白・紫(黒)・黄の五色の幣が飾られ、天井には五色の切り紙を取り付けた白蓋が吊り下げられた聖なる空間である。中央に、六間四方の土間があり、湯立ての湯釜が設えられている。そこが舞庭(舞処)である。ここで、花禰宜(祭りを司る司祭者)が神降ろし、火入れ・湯立ての神事を行う。釜の湯が煮えたぎり、湯気が舞庭に立ち込めると、いよいよ宮人による「の舞」「御神楽」、青年による「地固め」の舞、稚児による「花の舞」などが始まるのである。
 舞庭の奥の祭壇が神座(かむくら)で、登場する神々や鬼神などを迎える神事の場、太鼓や笛などの楽屋などを兼ねる。ここに、当日使用される鬼面が置かれ、静かに出番を待っている。

 


[6]鬼と踊り明かした夜

 奥三河「花祭り」は、九州脊梁山地の神楽、大分県国東半島の修正鬼会、北部九州豊前神楽の湯立て神楽などとの共通項が多くみられる、神事性のつよい祭儀である。花宿を彩る五色の幣、舞庭中央に下げられる白蓋(びゃっけ)、舞庭の五方に立てられる榊、舞庭の戌亥(西北)に当る小高い場所で行われる「高嶺祭」、辰巳(東南)に当る平地での「辻固め」舞庭の天井での「(あめ)の祭り」、舞庭の奥の部屋での鎮めの神事などは高千穂・椎葉・米良などの神楽の飾り付けや「モリ」と呼ばれる幣を石や巨木のもとに祭る儀礼などを思わせ「山見鬼」「榊鬼」「茂吉鬼」の登場は国東半島の修正鬼会、「湯立て」は豊前神楽を連想させる。

 種々の神事に続き、宮人による「撥の舞」「御神楽」、青年による軽快かつ勇壮な「地固め」「市の舞」「三つ舞」などがあり、稚児による「花の舞」が終わる頃には、舞庭の中は湯煙と人いきれ、「テーホヘ、テホヘ」という神楽囃子などによって、興奮状態となる。そこへ、赤と緑の鬼面を着けた「伴鬼(ともおに)」が登場、続いて「山見鬼」がを持って登場すると、舞庭は興奮の坩堝と化す。山見鬼を中心とした鬼たちは、湯釜の回りを巡り、釜に足をかけて釜を割る所作をする。この所作を「山を割る」という。山見鬼とは、九州の神楽の「地割り荒神」と同様の、悪霊を祓い鎮め、「山=土地」を占有する鬼であろう。
 続いて、少年たちが扇と剣を持って舞う「三つ舞」があり、赤装束に大襷をかけ、大鉞を持ち、伴鬼二鬼を従えた「榊鬼」の登場となる。花祭りでは、舞庭の五方に榊を立てたり、鬼との問答に榊を用いたりして榊を「花」とも呼ぶことから、この榊鬼こそ花祭りの主役であるといえる。榊鬼は、禰宜役と榊問答をした後、反閇(へんばい)を踏み、鉞で天・地・空を切る。舞庭を清め、土地の霊を鎮める呪法である。
 夜が白々と明け初めるころ、釜の湯に藁で束ねた湯たぶさを浸し、その湯を盛大に振り掛ける「湯ばやし」で祭りは最高潮に達し、「茂吉鬼(朝鬼)」が登場して白蓋に取り付けられた宝物(蜂の巣と呼ばれている)を打ち落とすと、中に入れられていた五色の弊、切り紙、小銭などが舞い散る。これもまた五穀の「花」であり、万物の種子である。 
 花祭りは「おこない」とも呼ばれることから、この祭りに登場する鬼は追儺の鬼である。かつて「花祭り」では、七日七夜に及ぶ「大神楽」が開催され、「白山入り」と呼ばれる「生まれ清まり」の儀礼が行われたことがあったという。「白山」とは、数年に一度、舞庭に「浄土」空間を設え、祈願者が舞庭と白山とを結ぶ白木綿の橋を渡り、鬼に救い出されて帰って来る疑死再生の儀礼であった。天竜川水系の隠れ里ともいうべき奥三河は、熊野や伊勢の修験者、南北朝の騒乱を逃れて入山した落武者などが依拠し、先住の村人と融合しながらひっそりと暮らした地域であった。ここに伝えられた儀礼や芸能は、華やかさと厳しさをあわせ持った文化として土着した。「花祭り」とはそれを今に伝える芸能である。

 朝鬼の登場の後、静けさを取り戻した舞庭で獅子舞、注連下ろし、鎮めなどの儀礼が行われ、神々と里人との饗宴が終わる。朝の光が、楓の紅葉に宿っている。



[7]遠山霜月祭りの「天伯」
   
            
 奥三河から、天竜川に沿ってさらに北へ遡ると、信州の秘境とも呼ばれる遠山郷に至る。信州(長野県)と三河・遠州(静岡県)の北部とが境を接するあたりに位置する、下伊那郡上村と南信濃村を中心とする地域である。伊那山脈と赤石山脈(南アルプス)が接近し、山岳は空高く聳え、谷は深くなる。天竜川は、時に激流となり、また深い淵をつくって、流れ下る。遠山郷の人々は、幾筋にも分かれる天竜川支流の谷筋の険しい山腹や急峻な斜面を切り拓き、焼き畑を行い、蕎麦、黍、粟、豆、麦、陸稲、芋類などを栽培し、狩りをして暮らした。天高く聳える山は天伯=山神の国であり、川は、河伯=水神が支配した。
 天竜川沿いの道は遠州から信州の善光寺へ、信州からは遠州の秋葉神社(火伏せの神として信仰を集めた)へと往来する人で賑わった「秋葉街道」と呼ばれ、さまざまな文化を運んだ。平安時代には豪族遠山氏が発生し、鎌倉時代には源氏の荘園となり、南北朝時代には南朝の皇子・宗良親王が入山した。秋葉街道に沿って、熊野修験、諏訪信仰、白山信仰なども流れ込んだ。「霜月祭り」はこれらの要素が複雑に混交し、伝えられてきた「山の祭り」であり宮崎の山地神楽や「火の王・水の王」の起源とも共通項をもつ祭りである。

 私が訪ねたのは、南信濃村八日市場・日月(にちげつ)神社の霜月祭りであった。遠山川支流の深い谷を見下ろす山腹の斜面にへばりつくように集落があり、その中心部の板壁も寂びた小さな神社を、初冬の午後の陽射しが照らしていた。

 祭りは、神迎えの神事から始まる。まずに火を入れ、森羅万象に宿る神の名を読み上げ、神々を招く神楽歌を歌う「神名帳」、地を踏み土地の霊を鎮める「踏みならしの舞」、竈の五方を清める「湯びらき」などが行われる。湯立てが繰り返し行われ、その合間に、火伏せ神楽、祈願神楽、扇の舞、剣舞、姫舞、八乙女の舞などが次々と舞われるのである。ゆるやかな太鼓と笛の音が響き、調子が徐々に早調子となる。
 夜半を過ぎ、神楽宿が熱気に包まれ、舞人や参拝者の興奮が最高潮に達するころ、仮面神が登場する。神殿から下ろされた面箱から「水の王」を取り出す「面おろし」の神事が終わると、太鼓はいよいよ激しく打たれ、湯伏せ・火伏せが行われ、呪文の数々が唱えられ、「水の王」が登場する。青い鼻高面の水の王は、煮えたぎる釜の湯に手を入れ、右、左と湯釜の水を激しく撥ね飛ばす。群がる参拝者に湯は容赦なくふりかかり、場はトランス状態となる。この湯を浴びると一年間の無病息災が約束されるという。続いて「火の王」が登場、源氏の霊を鎮める源王大神、滅亡した遠山氏の霊を鎮める遠山御霊面、日月神社の面、木王・火王・土王・水王の「四面」、稲荷面、神太夫などが次々と登場するのである。
 最後に、赤い鬼神面の重厚な「天伯」が登場する。この天伯は「宮天伯」「火の王・水の王」「金王猿田彦」「荒神」などと地区によって異なる名称で呼ばれるが、霜月祭りで最も重要な神とされ大切に祀られる。「天伯」が現れると、一瞬、祭りの場は鎮まり、続いて、熱狂する。この天伯こそ、遠山地方の先住神である。古層の神が山の精霊となり、山深い里の人々に守られ、生き続けているのである。



[8]幻の村「寒川」の神面               

 宮崎県西都市の中心部から西へ伸びる林道がある。米良山脈を源流とする「前川」という渓流に沿う道である。谷は深く魚影は濃い。魚体が虹色に輝く天然ものの山女魚がひそむ川である。林道を20キロほど遡った地点から、北へ入り込む山道がある。それが、幻の村「寒川」へと向かう道であった。
 崖沿いの細い道を登りつめると、杉木立に覆われた数軒の民家が見えた。それは、いずれも「家」としての機能を失って久しい、廃屋であった。屋根は崩れ落ち、梁や障子の桟などが虚しく空を突いていた。幾重にも組まれた石垣が往時の姿をしのばせたが、そこにも蔦や木の根が侵入し、風化を急がせていた。文亀年間(1500年代)頃、米良地方の領主であった菊地氏の家臣によって開かれたという伝承をもち、一時はアンチモンの産出地として栄え、明治初期頃には230人余りが暮らしたというこの集落は、戦後は過疎化が進み、1978(昭和53)年に寒川小・中学校が廃校、1989年には最後の六戸が集団離村して、廃村となったのである。

 記録映画「寒川」(籾木良作監督)は、高齢化や過疎化により農山村が疲弊してゆく「限界集落」をテーマに、この寒川地区を中心に撮影が進められている。村を訪ね、今は住む人もいなくなった集落跡の四季を記録し、過去の映像を掘り起こし、離村した元住民に話を聞き、周辺地域の生活や祭りの模様などをフィルムに収めているのである。
 今年(2006年)8月、この映画撮影にちなみ、18年ぶりに「山の同窓会」が開かれた。「寒川で会おう」を合言葉に、元住民約150人が集まったのである。この同窓会を機に長年、不明となっていた神楽面と神楽衣装が発見され、当日、途絶えていた「寒川神楽」が28年ぶりに奉納された。神楽の伝承者は少なくなっていたが、隣接する尾八重神楽の舞人たちが協力し、神楽が実現した。
 発見された神楽面は、「御神(ごしん)」、「神和(かんなぎ)」、鬼神面系の「荒神」二面の四面である。御神は、米良山系の神楽に点在する「宿神(しゅくじん)」の系譜に連なる優品で、地区の御神体と敬われる神面である。前号でふれた遠山霜月神楽の「天伯」にも通じる土地神であろう。荒神の一面は山の神、他の一面は御笠(みかさ)荒神であると推定された(宿神・荒神については別項で詳述)。神和はこの連載でもすでにふれたが、「清め」「鎮め」などの要素をもった古式の巫女舞の名残をとどめる舞に使用される面である。村の中心部にある「天神社」の前の広場で舞われた神楽は、村の記憶、神と人、人と人の縁などを結んだのである。

寒川集落を訪ねたのは、切り立った崖に白山菊の花が咲き、米良の山々が青紫色に霞んで見える晩秋の1日のことであった。道には椎の実が落ち、遠くから、鹿の声が聞こえた。
 石垣で組まれた坂道を登りつめた所に寒川小・中学校の跡地があった。廃校となった校舎は半ば廃墟化して、がらんとした教室に西日が差し込んでいるだけだった。校庭のはずれにセメントで作られた鹿のオブジェがあったが、それも風化し、牡鹿の角は折れ、牝鹿の片耳はちぎれていた。二頭の鹿は、悲しみを湛えた瞳で遠い米良の山脈を見つめていた。





[9]尾八重神楽の花鬼神               

 一ツ瀬川の支流・尾八重川に沿って遡り、途中から北方へ折れて山道を登って行くと、道は山岳地帯の中腹から尾根筋へと向かい、米良の山脈に入り込んでゆく。深い谷の向こうには幾重にも重なる山脈がある。大きな山塊に抱かれて、丹念に積み上げられた石垣、質素ではあるが重厚な家々、それをつなぐ細道などで構成された集落が点在する。西都市尾八重地区は、中世の山城を中心に形成された山岳の村の名残をとどめるこれらの美しい村の一つで、米良系神楽の「尾八重神楽」を伝える。

米良山系には、懐良親王伝説が点在し、神楽の起源説話とともに語られる。後醍醐天皇の第十一皇子・懐良親王は、南北朝騒乱の終末期に、北朝方に追われて吉野に逃れた後醍醐天皇が南朝の再興の夢を託して九州へと派遣した。親王は肥後菊地氏と合流し、転戦を重ねて大宰府を押さえ、一時は九州を制覇したが、後に足利幕府軍に敗れて菊地氏とともに米良山脈へと入山する。神楽は、親王に随従してきた都の舞人が、陣中で舞ったとも、入山後の親王の無聊を慰めるために舞われたとも伝えられる。
 尾八重地区の中心部には40戸ほどの民家があるが、今は10戸ほどしか住人はいない。かといって無人なのではない。時折、里に下った家の主が帰ってきて、周辺の山林や田畑を手入れしたり、1日を過ごしたりしてまた麓の町へと下って行く。神楽の伝承者もすでに村にはおらず、町で練習を重ねて、一年に一度、尾八重神社の大祭に奉納するのである。
 尾八重神楽は、毎年11月22日の午前中、狩りの豊猟を祈願する山人の神事「猪鹿場祭り」から始まる。午後、地区の鎮守神社である尾八重神社での神迎えの神事があり、神社に隣接する尾八重小学校の校庭に設えられた御神屋に一行が下って、神楽が舞われるのである。すでに廃校になって久しい尾八重小学校の校舎は半ば廃墟化しているが、校庭には、多くの村人が集まる。焚き火を囲み、懐かしい挨拶が交わされ、近況を報告し合う。淋しい村も、この日ばかりは輝きを取り戻すのである。

式一番から三番まで、神屋の完成を祝い場を清め、鎮める舞いが静かに奉納された後、招神の舞「弊差」に続く「花鬼神」でこの夜最初の神面の登場となる。花鬼神とは、湯の片若宮大明神を表し、尾八重神楽の祖・壱岐宇多守であるとも伝えられる。金襴の千早を着て、端正な若男の面を着け、右手に神楽杖、左手に扇を持って厳かに舞う。今年、この役を勤めたのは、小学三年生の中武祥吾君であった。神楽の幕開けを飾る番付に少年男子の舞「花の舞」があり、奥三河の花祭にも華やかな稚児の舞「花の舞」がある。米良系神楽や高千穂神楽などに最初に登場する仮面神として「入鬼神」が分布することから、この花鬼神も、穢れのない幼児に神性をみる信仰と土地神の信仰とが混交した演目であると考えられる。御幣を捧げて舞う清浄な舞「弊差」を舞った大人の舞人二人を従えて舞う祥吾君の堂々とした舞振りに、観客から大きな拍手が起こった。
 この後、スピード感にあふれ、山人の野性味と中世の優美さとを併せ持った神楽が次々と舞われ、夜が更けてゆく。この神楽があるかぎり、尾八重の灯が消えることはない。


[10]高千穂秋元神楽の入鬼神         

 高千穂町秋元神社は、地区の最奥部に聳える「太子が(いわや)」と呼ばれる岩山の麓にあり、今もなお人々の信仰を集めている。かつて、修験者たちが修行の場とした厳しい自然がそこにある。山に依拠し、自然の中で肉体を鍛え、自然そのものと一体化することによって験力を獲得した宗教者たちは、里に下り、村人に幸を与えた。「幸」とは、自然界のエネルギーを感受する神秘の術であり、病を癒す薬学の知識と療法であり、狩りの獲物や五穀の豊饒を約束する秘法であった。彼らは、遠い異国の文化と情報を運ぶ伝道者の役割も果たした。それらが、一年に一度出会う場所が「まつり=神楽」の場であった。

 高千穂町向山秋元地区は、高千穂町の中心部から南へ約20kmほど離れた、静かな山里である。ここに「秋元神楽」が伝えられている。秋元地区は、諸塚山を隔てて諸塚村に隣接する。諸塚山の山頂には、北斗七星を祀ったとみられる多数の塚があるといわれ、星宿信仰、修験道などの遺構が点在する。秋元神楽は、諸塚村に伝わる諸塚神楽とともに高千穂神楽の古形を伝えるといわれる。
 晩秋、古びた社殿や境内が黄金色に染まる。神社の石段を登りつめた所にある大きな銀杏の木から、黄葉した葉がはらはらと落ちてきて、神域を彩るのである。神楽の伝承者(奉仕者=ホシャどん)や村人、遠方からの拝観者などが、次々に集まってくる。笛の音が響き、どどん、と太鼓が鳴る。「神迎え」の神事が始まったのだ。

神社から降って来た祭りの行列は、猿田彦を先頭に宿に舞い入る。赤と金襴の千早を着け、大幣を持った猿田彦大神が、天浮橋に見立てた一斗升の上に立ち、四方を祓い清める「彦舞」が終わると、神楽宿を清めて氏神を迎える「太殿」(四人舞)、神楽の舞われる神庭を清めて諸神を勧請する「神降ろし」(三人舞)、神樹である杉を伝って神が降臨する「杉登」(二人舞)の式三番の神楽が舞われる。右手に鈴、左手に採り物(扇・御幣など)を持ち、唱行(神楽歌)を歌いながら舞う清澄な舞である。杉登の途中から、白い大型の鬼面を付けた「入鬼神(いれきじん)」が舞い入る。高千穂神楽の入鬼神とは荒神であり、土地の氏神であるといわれる。秋元神楽の入鬼神は、「秋元太子大明神」であり、諸塚山の御神体であるとも伝えられる。このことから、この秋元地区が諸塚山に栄えた修験道の中心地のひとつであったことがわかる。神楽の進行を示す番付表には、入鬼神の神名が「かぐつちの尊」となっている。加具土命とは、火の神を表すことから、古代製鉄との関連も示唆される。仮面の頭部には二本の角の跡があり、裏面に元禄年間の年号がある。古い鬼神面である。
 今年の入鬼神を演じたのは、秋原孝徳さん(45才)で、今回が初演ということであった。金襴の千早を着け、面棒(神楽杖)を持ち、厳かに舞い終えた。控えの間で、手を合わせ、祈るようにその姿を見続けていたのは、母の秋原ひろみさんであった。

高千穂神楽の「入鬼神」に相当する神は、前号で紹介した尾八重神楽の「花鬼神」、銀鏡神楽の「鵜戸鬼神」など、米良山系や霧島山系の神楽にも点在する。仮面神の先陣を切って登場する先触れの神であり、氏神として信仰され続けてきた土地の精霊である。



[11]鬼に会う・祖先に会う               

手元にある最も大きな仮面のことを忘れていた。いつも、展示の中心に据え、どこへ出かけるにも一緒だった「鬼」の面である。恐いようで、飄軽な表情も合わせ持ち、どこやら淋しげな雰囲気を漂わせている鬼。目をかっ、と見開いてはいるが、眉毛は下がり気味であり、大きく開けた口の中の歯は欠けて、少ししか残っていない。身近にいるけれど、普段は忘れていて、時々思い出す気になる鬼。この鬼の謎を解く鍵は、前号までに見てきた奥三河の花祭りの鬼や、大分県国東半島「修正鬼会(しゅじょうおにえ)」などに隠されている。

国東半島天念寺の修正鬼会が行われる講堂の前には、『鬼に会うことは祖先に会うこと』と書かれた立札が立っている。ここでは、鬼とは土地の精霊であり、祖先神なのだ。
 古代中国では、およそ五千年前には「善鬼」が「悪鬼」を追う「(ヌォ)」の儀礼が発生していたらしい。長寿を全うした一族の長老や、強い武将、王などが死ぬと、家や村や国を守る祖先神=善鬼となり、病死したり戦争で死んだ人、制圧された先住民の霊などは、地にこもり、祟りをなす悪霊=悪鬼となって恐れられた。すでにふれた「蚩尤(しゆう)」「方相氏(ほうそうし)」などが善鬼にあたる。古代中国の宮廷で行われた「儺=追儺(ついな)」の儀礼は、日本へも伝わり、広く分布した。国東半島の修正鬼会はその古形を残す祭りである。

天念寺の鬼会は、昼の長い勤行の後、夕闇迫る川にフンドシ姿の「テイレシ(松明入れ衆)と呼ばれる男衆が勢いよく飛び込む「コーリトリ(水垢離)」から始まる、コーリトリを済ませたテイレシは、本堂で「結縁(けちえん)」の儀を済ませ、川向こうの広場に渡り五メートルを越える、大松明に点火する。点火された三本の松明は、広場の端の巨石にぶつけられ、火勢を強めながら川を渡る。その勢いで二本の松明は講堂へと突っ込み、残りの一本は橋の上に立てられる。松明の火が、赤々と川面を照らし、講堂が火の中に浮かびあがる。
 講堂の中では、密教僧による勤行、五穀成就を祈る「米華(まいけ)」、火の安全を五方竜王に祈願する「開白(かいびゃく)」、香水棒と呼ばれる木弊と剣を合わせ持ち、下駄を激しく踏み鳴らしながら舞う「香水(こうずい)」、東、南、西、北を結界する「四方固め」などの舞の後、「鈴鬼」の舞となる。鈴鬼とは、仮面を着けた男神と女神で、翁と媼、鬼の子、鬼のもどき(道化)等の解釈がされている謎の神である。鈴鬼は、最後に「鬼招き」の舞を舞う。

鈴鬼に招かれて、赤づくめの「災払い鬼」、黒づくめの「荒鬼」の登場である。鬼は、堂の後方にある火床からそれぞれの手に持つ松明に点火し、堂内を駆け回る。「鬼走り」である。介添え役のテイレシも、松明を持ち、鬼たちと同じ行動をする。観客は、鬼やテイレシに追いまわされ、火の粉を浴び、松明で叩かれて、狭い講堂内は騒然となる。だが、この鬼たちは、荒々しい祝福の舞を舞っているのだ。その証拠に、参拝者は、火の粉を浴びたり、鬼に叩かれたりすると無病息災が約束されるとして、みずから松明の下に身を投げ出し、「鬼の目」という餅が蒔かれると、争ってそれを拾う。鬼会の鬼は、異界から現れ、災いを払い、人間社会に幸福をもたらす「神」なのである。私の手元にある大型の鬼面は、この鬼たちと同類の、気のいい鬼であろう。


[12]後堂から走り出る鬼  
             

大分県国東半島は、古くから仏教文化が栄えた。畿内に仏教が伝わる以前に仏教が入っていたという説、山岳宗教が栄えていたとする説などがある。半島に点在する寺院の起源に、そのことをしのばせる伝承が残る。半島の付け根辺りに栄えた宇佐・八幡信仰の起源説話として「大神氏」という宗教者が応神天皇の降臨を迎えたとする伝承がある。奈良時代(養老年間)にはすでに鬼会が行われていたとする分析もある。六郷満山と呼ばれた半島全体を密教文化が覆うのは、平安時代であるから、先行する山岳信仰があり、そこへ仏教が入ってきたとする解釈は整合性がある。
 仏教の流入とともに、古来の宗教者や先住の神は、封じられた。それが、「寺」の講堂の後方から走り出る「鬼」であり、祭りの終盤で、僧侶に餅をくわえさせられ、鎮められる鬼であろう。国東半島の修正鬼会は封じ込まれた先住の神を「鬼」として追う「追儺」の儀礼だが、排除された鬼たちは、祭りの場にその怪異な相貌を現し、村人を祝福しようとするお人よしの鬼たちなのである。時代が下ると鈴鬼は仏の慈悲を表す化身、災払鬼・荒鬼は不動明王・愛染明王の化身とされ、神仏習合の相を加える。

成仏寺の修正鬼会では、寺の前を流れる小川でのテイレシ(松明入れ衆)の水垢離(禊)、松明の点火、勤行に続く米華、香水などの舞、鈴鬼の登場などを経て、災払い鬼、荒鬼、鎮鬼の登場となる。天念寺の鬼会では、昔、鎮鬼役の僧侶が結界を破って飛び出したため、本物の鬼になったという伝説があり、以来、鎮鬼は登場せず、鬼会も結界内(講堂内部)で行われるが、この成仏寺では本来の三鬼が登場する。
 災払い鬼(赤)、荒鬼(赤)、鎮鬼(黒)の三鬼は、本堂後方の愛染堂から、テイレシに背負われて登場、院主が口に含んだ酒を吹きかけ、般若心経を唱えて祓いをした後、それぞれ松明を持ち、一方の手に斧、剣、槌を持って、本堂の床を激しく踏みとどろかせながら前庭へと走り出る。「鬼走り」である。鬼の面は、四十センチに及ぶ大仮面で、きわめて土俗的な造型である。参拝者は前庭に丸くなって蹲り、鬼はその周囲を松明の火をかざしながら回り、松明で参拝者の尻や肩を叩くなどの荒っぽい加持を行う。場内は喚声や悲鳴が飛び交い、騒然となる。
 その後、三鬼は本堂の裏手の崖の中腹にある六所権現に参拝し、数名の介錯を従えて急な石段を駆け下り、集落へと走り出る。そして訪れた家の前で、「オーニハヨー、ライショハヨー(鬼はよー、来世はよー)」の鬼ばやしを歌い、そのまま座敷に上がり込んで、酒食のもてなしを受ける。その間、松明の火が、家の軒先で燃え続けている。

中世、天台密教の常行堂で行われた「修二会」に付随する法呪師による呪法「鬼走り」については、服部幸雄「宿神論」以来、多くの研究がある。後堂には、「摩達羅神」と呼ばれる封じられた神があり、芸能者の守護神として信仰された。後堂から走り出る鬼は、この封じられた神の顕現であり、追われる鬼である。しかしながら、一年に一度姿を現す憤怒の神は、衆生には、来世の祝福と現世の恩恵をもたらす来訪神でもあった。


[12]追う鬼と追われる鬼 
             


 「追われる鬼」とは、こんなにも悲しいものか、と思う。

 福岡県太宰府天満宮「鬼すべ」の鬼は、追われる鬼の典型である。「鬼すべ」とは「鬼(おにふすべ)」のことである。祭りの最終盤、鬼すべ堂の中に追い込められた鬼は、堂の北面に積み上げられた松葉と藁の火で燻べられ、追い出されるのである。
この祭りは、もとは「追儺祭(ついなさい)」といい、花山天皇の寛和二年(986)、太宰大弐菅原輔正によって始められたという由来を持つ。一月七日午後三時、天満宮本殿での本殿祭で、神官から鬼役に鬼の面が渡される「鬼面拝受(きめんはいじゅ)」、神火が渡される「松明拝受」などの神事が行われ、氏子はそれぞれの町内へ帰り、配置に着く。祭りは天満宮の氏子である六町によって行われ、三条、連歌屋、馬場が鬼を燻べる役の「燻手(ふすべて)」、大町が「鬼係」、新町、五条は「鬼警護(おにけご)」を受け持つ。本殿を出た鬼面は、神火に先導され、大町の西端の小社に安置される。四十センチほどもある真っ赤な鬼面が、西日を受けてひときわ赤く輝く。

夕刻、大松明に点火し、各町内の持ち場を出発した鬼警護、燻手、鬼係は、天満宮の参道へ向かって来る。五メートル以上もある松明は荒々しく振り回され、火の粉が飛び、炎が家の軒をかすめる。そのたびに参道を埋める参拝者がどよめく。大松明の後に、鬼面を捧持した「鬼係」が続く。「オンジャ、オンジャ(鬼じゃ、鬼じゃ)」の掛け声が、参道から天満宮の森へとこだましている。この鬼役が掲げ持つ鬼面に追いまわされる「鬼役」がいるという。「大宰府天満宮神事帳」には、身体中をぐるぐる巻き(全身四十八箇所)にされた鬼の姿が記録されているが、この「縛られる鬼」こそ、奥三河「花祭り」の鬼、国東半島「修正鬼会」の鬼などに共通する扮装であり、「見えない鬼」「悪鬼」「追われる鬼」の共通する特徴である。鬼役は、鬼係の男衆が厳重にその回りを取り囲んで走り回るため、どこにいるのか、そしてそれが誰なのかさえ、誰にもわからない。この鬼役は、古くは、特殊部落の人がつとめたという伝承がある。各地の追儺行事においても、「散所(さんじょ)民」がつとめたことが記録されている。散所民とは、古代から中世へかけて寺院の雑役をつとめた人々で、呪師(ずし)申楽者などの芸能者もこれに属した。その源流は、大和王権の支配下に入った先住の民、朝廷の支配を拒み、戦争に敗れた敗残者などであった。彼らは、祭りの場においてさえ、排除され、鎮められる役を負ったのである。

「鬼」の一行は、参道を進み、境内の「鬼すべ堂」へと向かう。神官から渡された斎火が、燻手によって堂の北側に積み上げられた生松葉六十把、藁二百把に移されると、たちまち濛々と煙が立ち込め、大火炎があがる。燻手は大団扇で煽り、煙を堂内に送り込む。堂内では、鬼警護が左右後方の壁を激しく叩き、打ち破る音がとどろく。やがて三方の壁が破られ、「鬼」を鬼係が取り囲んで「鬼松明」を先頭に鬼面を振りかざしながら、堂内に入る。鬼は堂内を七回半、堂外を三回半巡る。その時、堂内では神官が、堂外では氏子代表が、煎り豆を投げつけ、卯杖(うづえ)で鬼を打つ。悲しい鬼の祭りは火と煙に包まれたまま、終わる。鬼の行方は知れない


[13]七鬼神に変身した!!

 突然、名前を呼ばれた。それは、天から降ってきた声のように思われたが、そこは天上世界ではなく、神楽が舞い続けられている高千穂・秋元集落の神楽宿の中だった。
 すでに神楽は、先導神・猿田彦による「彦舞」、清浄な清めと鎮めの舞である式三番(「太殿」「神降し」「鎮守」)と地主神・秋元太子大明神の登場する「杉登」などを経て、剣の霊力によって土地の霊を鎮め、古代の国作りの物語を演じる「地固」、赤と緑の二本の幣を持って優美に舞う「幣神添(へいかんぞえ)」、海神の舞と伝える「住吉」と「沖逢(おきあい)」、弓矢の神威により悪霊を祓い狩りの恵みを祈願する「弓正護」、などが終わり、中盤のクライマックスの場面へと向かうころであった。
 早調子だった太鼓の音がゆるやかに響き、笛の音も途切れがちになり、眠気を誘う。観客も舞人も、はるかな古代の世界と、現世との間を行き来していた。その何もかもが曖昧な輪郭を描いて揺れている時間帯に、突然、名前を呼ばれたのは、次の演目「七鬼神」に飛び入り出演する舞い手として指名されたのだ。

 自分の身の上に何が起こったのか判然としないまま、私は楽屋に連れて行かれ、ホシャどん(奉仕者=舞人)たちの間に座らされていた。そこは、通常、観客席から見る場所で、一般人の立ち入る所ではない。ホシャどんとは、いつでも神に変身することのできる「神人」であり、私は神楽を舞った経験もないズブの素人なのである。私は困惑し、そのわけを申し述べると、係の人は、笑いながら、七鬼神の御子神は余興であり、親神を真似て舞ったり、即興の演技をすればよいのだ、というようなことを言う。
 どうやら、観客席へと逃げ戻る選択肢は失われたようだ。私は観念し、静かに正座した。口に榊をくわえさせられ、正面の神棚に飾られている仮面が運ばれて来て、すぐにそれを着けさせられる。仮面を運び、演者に着ける役は、神楽座の座長格の人であり、その人も神面に吐く息をかけないよう榊をくわえている。仮面が顔に着けられ、その眼の穴から、外の世界が見えた。すると、そこから見える世界は、いままで観客として見ていた「神楽という演劇空間」とはがらりと変わっていた。まさに「神々の物語の舞台」とでもいうべき異次元空間が、あざやかに出現していたのである。私は、この瞬間、七鬼神に変身していた。

高千穂神楽の「七鬼神」とは、「七貴神」「七福神」とも表され、大国主命がその七人の御子神と一緒に国造りをする場面であるという。最初に大国主命が派手な舞い振りで登場すると、次々に御子神が登場し、滑稽な技を披露したり盛大に暴れまわったりして、会場は爆笑の渦に包まれる。私は、御神屋の正面で大相撲の高見盛関の取り組み前のパフォーマンスを真似て胸を両手でたたき、拳を地面に向けて突き出す所作を繰り返した。相撲と神楽は深い関連があり、自分の名前も「高見」だから、この程度の余興は許されるだろう、と咄嗟に判断したのである。場が、どっと沸く気配を感じたが、それも高千穂の山々にこだまする山彦に似て、遠く近く、反響を繰り返していた。


[14]銀鏡神楽の「七鬼神」                 

 高千穂・秋元神楽の「七鬼神」では、私は七鬼神の一神に変身させられ、即興の神楽を演じるという体験をした。「仮面は神に変身するための装置である」と解釈し、「仮面を着けた瞬間に神が降りて来る」と語る神楽の舞人(奉仕者、祝子、舞子などと呼ばれる)の言葉をそのまま信じていた私ではあったが、これまで、その感覚は想像の域を出なかった。それが今回、思いがけないかたちで実感できたのである。仮面のほぼ中心部に穿たれた「眼」という小さな空間から見える外部世界は、それまでに属していた時空から「私という個人」を遮断し「神楽」という演劇空間へと一瞬にして移入させた。その「時」こそ、多くの舞人たちが「神の降臨」と表現し、「神人」であることを自覚する瞬間なのであろう。

前号でもふれたように、秋元神楽の七鬼神は大国主命と七人の御子神による国造りの場面だとされるが、米良山系の銀鏡(しろみ)神楽にも「七鬼神」という特筆すべき演目があるので、対比してみよう。銀鏡神楽は、西都市の北方に位置する銀鏡地区に伝わる神楽で、南北朝・懐良(かねなが)親王伝承を骨格とし、狩猟民俗、星宿信仰などが混交する貴重な神楽である。
 銀鏡神楽の七鬼神は、神楽最終盤の「岩戸開き」が終わり、夜も白々と明けはじめた時刻に演じられる。まず、「(へや)の神」と呼ばれる女面を着けた女装の神が登場し、伊邪那岐命・伊邪那美命による天地創造と国生み、陰陽の道、人類誕生の物語などを語る。室の神は、杓子面とも呼ばれる神で、腰には米良籠(テゴ・メゴなどと呼ばれる)を下げ、その中には杓子、すりこ木、しゃもじ、もっそうの飯型などを入れ、それを次々に取り出しながら、滑稽かつセクシーに語るのである。この舞の途中、内神屋から、「ズリ面」と呼ばれる怪異な仮面を着けた七体の神が、いざりながら現れ、女面を囲み、足をからませたり、互いにもつれ合ったりする。原初的な生殖の場面を演じ、子孫の繁栄を祈る儀礼であろう。
 続いて演目は「七鬼神」に移り、女物の着物を着て姥面を着け、赤子を背負った老女神が、子供をあやしながら御神屋の四方を打ちながら舞う。この老女に前述の七体の神が面棒で突付いたり飄軽に舞ったりして絡む。さらに、場面が「獅子舞」へと進むと、猪面を被った獅子が現れ、「山の神」がその尻尾を持って、猪の所作を繰り返して暴れる獅子を取り押さえる。他の六神がこれに続き、滑稽な所作を交えて舞い納められる。

この一連の番付に登場する神が、「ズリ面」を着けていることから、「七鬼神」とは、万物の象徴であり、土地の精霊であることがわかる。ズリ面は、いかにも泥臭い、土着の民を思わせる造型である。米良系神楽の源流ともいわれる村所神楽には、懐良親王の奥方とも伝えられる姥面の神に仮面を着けた子供たちが絡む演目、同じく尾八重神楽にも姥面(メゴ面または杓子面と呼ばれる)に子供たち(仮面を着けない)が絡む演目がある。椎葉・栂尾(つがお)神楽では、火伏せの舞と言われる「火の神神楽」に続いて「七鬼神」の舞があり、同じく椎葉・十根川神楽でも「火の神」で舞人全員が仮面を着けて飄軽に舞う。高千穂・椎葉・米良山系の七鬼神は、山地に依拠した先住の民の信仰が、各地域での変容を加えながら神楽の一場面として残存しているものと思われる。


[15]椎葉の地主神・鬼神

夜が更けた。神楽宿の中は、ぎっしりと人で埋まった。
 焼酎の匂い。煙草の煙。串刺しにされた猪肉。五色の幣。太鼓の音。呪文のような太夫の語りとそれに和す舞人たちの唱教。
 椎葉・尾手納(おてのう)神楽は、今回(2006年12月23日)が地区最後の神楽宿(民家)での開催であった。集まった村人も、遠近から訪れた拝観者も、神楽の伝承者たちも、それぞれの感慨を胸に秘め、一夜を過ごしていた。古来、椎葉の神楽は、民家で開催されてきたが、近年、集落の衰退、後継者不足などの要因が重なり、次第に地区の集会所や公民館などでの共同開催へと推移してきた。尾手納地区でも時代の流れには抗することができず、次回以降は新築された公民館での開催が決定していた。

今回の宿主を務めるのは、椎葉美太仁(みたに)さん(56才)。一度は村を出て都会での暮らしを体験したが、今は尾手納に戻り、地区の中核を担う人材として活躍している。すでに大役「壱神楽」を舞い終え、笑顔で客席に座ったり、来客を迎えたりしている。「壱神楽」とは、二人の舞人が右手に鈴、左手に刀を持って登場し、御神屋でひと差し舞った後、一人が客席に舞い入り、次々に盃を交わし、再び御神屋に戻って舞うという体力頑健で大酒をものともしない壮年の舞い手でなければ勤まらない演目である。美太仁さんの長男智成さん(29才)も剣の舞、太鼓の役などを受け持ち、若手の中心的な役をこなしている。奥の座で美太仁さんの父君・成記さん(88才)が片手に曾孫を抱き、もう一方の手に一升瓶を持って来客を迎えている。成記翁は、尾手納神楽の歴代の名人の一人に入るといわれた舞人である。民家での最後の神楽開催は、翁の強い希望によるものだということであった。

太鼓が激しく打たれた。右手に鈴、左手に扇を持った「つれ舞」(とも舞、相舞などともいう)が、「鬼神」を先導して現れる。大型の真っ赤な鬼面がぎらりと光る。つれ舞の鈴が、じゃらん、と振られるたび、幣が飛鳥のように揺れる。鬼は面棒を持ち、つれ舞とともに激しく舞う。途中、つれ舞と押し合うような場面があり、
―冬の夜 めざめ聞けば 神くだり・・・
―榊葉よ 道をたたえて拝むとは・・・
などと語り(言い句)が入る。今宵、鬼神の面に憂色を見るのは私だけであろうか。
 近接する向山日添、日当、尾前、さらには椎葉神楽全域にわたり同様式の鬼神が登場する。嶽之枝尾神楽の「注連引鬼神」は、内神屋で舞った後、外神屋に出て、注連に張られた12本の赤布と白布を面棒と合わせ持ち、足踏みをしながら引く。弓神楽、しょうごん殿と続く狩猟神楽「森」とこの「鬼神」が椎葉神楽の中核である。鬼神は椎葉の山の神であり、地主神であると思われる。
 夜明けが近づいた。成記翁の焼酎瓶も空になった。外に出てみると、はるかに続く山脈を朝の光が染めはじめていた。その光は、椎葉の最奥部といわれる尾手納の山にはまだ届かず、山懐に抱かれた村は、黒々とした闇に包まれていた。


mmm工事中

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(SINCE.1999.5.20)