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                      黒い女面
  
            

[1]小戸の潮音

 その仮面を、遠い昔に、一度だけ見た記憶がある。かれこれ二十年も前のことだと思う。

霧島山系を源流とし、都城盆地を流れ下り、宮崎市の中心部を貫流して太平洋に注ぐ大河・大淀川のほとりに小戸神社という小さな神社があって、その近くに、老齢のコレクターが住んでいた。宮崎市には、中心部の繁華街橘通り、一つ葉海岸の阿波岐原町などもあり、古代神話にいうタチバナのオドのアワキハラの「オド」とはこの辺りのことだと地元の人は言う。その小戸神社と老人とはなんの関係もないが、私は白髪白髭のこの老翁のことをひそかに「塩土の翁」と呼んでいた。南の潮風に洗われたその風貌は神楽の古面を思わせたし、記紀神話の「山幸・海幸」伝承のなかで、釣り針をなくした山幸彦を海神国「ワタツミのクニ」へと案内する翁を連想させたのである。

私はそのころ、「由布院空想の森美術館(大分県湯布院町/1986−2001)」の開館準備のため、南九州に濃密な分布をみせる不思議な仮面「九州の民俗仮面」を集め始めたばかりのころだった。九州の民俗仮面とは、神楽や村の祭祀などの芸能・民間信仰に使われた仮面のことで、記紀神話の原型とみられる「日向神話」と密接に関連し、中国・アジアの仮面史と連関し、能・狂言等の日本の伝統芸能の祖形を示す仮面群のことである。祭祀や神域の守護などに用いられた「王面」、祭りの行列を先導する神「猿田彦」、天孫降臨伝説や土地神の歴史を物語る「神楽面」などがそれである。村や神社や家などに「神」として伝わっていたこれらの仮面は、明治の排仏毀釈の荒波や戦後の荒廃と信仰心の喪失などの理由により、捨てられたり売られたして、「世間」を漂流していた。そのころ知り合った幾人かのコレクターは、散逸を惜しんで懸命にこれらの仮面を収集している人たちだったが、小戸の翁はそのなかの一人であった。

小戸の老翁からは、数点の珍しい仮面を譲っていただいた。木彫の神像や狛犬、土器や陶磁器、書画などの古美術品に埋まったその部屋は、私を南九州の神話世界へと導いてくれる入り口となったが、いつも老人が座っている奥の間の壁面に掛けられていた黒い女面だけは、「これには手放せないわけがあってな・・・」
 と、売買の対象からは外されていたのであった。
 その女面の来歴や老翁との由縁などは聞きそびれたまま、時が過ぎた。老人はすでに異界の人となったという噂を聞き、私もまた、バブル崩壊という時代の波に押し流されるように、経営難に直面した由布院空想の森美術館を閉館し、現在地の西都市穂北・茶臼原台地の一角へと移り住んだ。私が集めた300点を越える九州の民俗仮面たちも、一度は私と一緒に湯布院を出て手元にあったが、あたかも漂泊の旅を続けるように今は私の手を離れて不確かな境遇のなかにいる。 二十年ぶりに私の目の前に現れた黒い女面は、ある古美術オークションの売りたてに出ていた。
―ここにも漂流している仮面がいる・・・・。
図録を見つめながら、私は呻いた。


                  

[2]女面「深井」

 二十年の時を経て、再び私の目の前に現れた黒い女面は、裏面に「深井」という文字が書かれており、両頬にくっきりと笑窪が刻まれていた。
 女面「深井」とは、能の「桜川」や「隅田川」などに使用される中年女性の面である。
 「桜川」とは、日向の民話「桜子」の物語にもとづく。

 その昔。日向の国の桜川のほとりに住んでいた少年、桜子は、夫をなくし、機織りをしながら自分を育てる母の苦労を見かねて、みずから「東の人買い」に身を売る。そのことを知った母親は、物狂いとなって我が子を探す旅に出る・・・。時は流れて、常陸の国の桜川のほとり。人買いの家での年季が明け、望郷の念を抱きつつ寺での修行の日々を送っていた桜子は、ある日、花見に出た桜川の岸で――これとても、木花開耶姫のご神木なれば、風も過ぎて吹き水も影を落とすな――と水に散る桜の花びらを網で掬いながら狂い舞う女と出会う。それこそ、日向の国桜川のほとりで別れた母親であった。

「桜川」の作者は能楽の完成者・世阿弥と伝えられる。永享十年、将軍足利義教の頃、時の関東管領足利持氏に磯辺大明神神主・祐行が「花見の物語」を献上し、持氏が世阿弥に「桜川」を作らせたという伝承をもつ。典拠に、紀貫之の「常よりも春べになれば桜川波の花こそ間なく寄すらめ(後選集)、さくら花散りぬる風のなごりにはみずなきそらに浪ぞたちける(古今集・八九)」等があげられている。世阿弥は、古典文学に類型のみられる狂女による子探しの物語や「日向桜子」の説話、先行芸能としての白拍子の舞や曲舞などを念頭に置き、この曲を書いたと考えられるのである。

さて、女面「深井」は、近世以降のものは、いずれも白い面で、笑窪はなく、両頬が削げたような女面である。しかも、笑窪のある女面は、初期の能面または神楽面にしかみられないものであるという。とすれば、この黒い女面「深井」は能楽成立直後の能面ということが考えられる。後述するが、九州の神楽にも鎌倉期の年号入りのもの、室町初期の作と思われるものなど、数点の黒い女面が存在する。ならば、世阿弥が桜川を書いたころには、神楽面を母体とした黒い深井面が使われていて、近世に至り、白い女面へと変化した、という推理が成立する。私が再会した黒い女面は、このような、仮面史の転換期の情報を秘める貴重な仮面だったのだ。

だが、この時期、私にはつわものぞろいのコレクターとの駆け引きの果てにこの仮面を競り落とす自信も経済力もなかった。それで、三日ほど図録と睨めっこをしたあげく、諦めて、あとは忘れていた。ところが、ひと月ほど後に届いたオークションの落札結果表には、その面は「入札者なし」となっていた。私は、その場から入札を伝えるFAX送信をした。この場合、早い者勝ちで、最低価格で落札できる。見事、私は射止めたのである。
ところが、三日経っても、五日が過ぎても仮面は私の手元に届かなかった。オークション会社や運送会社に問い合わせ、追跡を重ねると、それは、西都原古墳群の麓の桜川のほとりの運送会社の支店に保管されていることがわかったのである。

                 

[3]西都原の風景のなかで

宮崎県には、「桜川」にちなむ場所が二ヵ所存在する。
 一つは、宮崎市南部、青島に近い海岸の丘陵部にある木花神社とその周辺である。
 木花神社は、その名が示すとおり、木花開耶姫を主祭神とし、神社の入り口には、日向桜子の伝承と能楽「桜川」の起源がこの地域であることを示す掲示板が立っている。神社は古びて訪れる人も稀だが、そこに立つと、山幸彦伝承を伝える青島が見える。耳を澄ませば、遠く、日向灘・太平洋の潮音が聞こえる。
 他の一つは、西都市西都原古墳群とその周辺である。西都原古墳群は、宮崎県の中心部のやや内陸部に位置する。九州脊梁山地・米良山系に源を発する一つ瀬川に沿った丘陵台地に、大小300基を越える古墳が点在する大古墳群である。古墳の築造年代は4世紀後半から7世紀頃と考えられていたが、最近の発掘調査により、3世紀の資料も出はじめたという報告もある。なかでも邇邇藝命の陵墓と伝えられる男狭穂塚古墳、木花開耶姫の陵墓と伝えられる女狭穂塚古墳は、九州最大級の前方後円墳で、宮内庁の陵墓参考地にも指定されている。
 この西都原古墳群の麓にあたる地域に、木花開耶姫に関する伝承地がある。邇邇藝命上陸の地すなわち木花開耶姫との出会いの場所と伝えられる笠沙岬(御船塚)と逢初川、木花開耶姫の出産の場「無戸室」、産湯を使ったとされる「児湯の池」などがそれである。その逢初川や児湯の池などのある辺りから古墳のある台地に沿って流れ出る小さな川が桜川で、その近隣の地番も大字桜川となっている。

 私が、古美術オークションで落札した黒い女面「深井」が一週間近く所在不明となり、保管されていたのが、この桜川の近くの運送会社の支店であった。私は大急ぎでそこまで出向き、ようやく念願の仮面を手にしたのだが、古い木の箱から取り出した時、その仮面は小さな擦り傷や補修の跡などが目立ち、憂色を湛えていた。私は、
「そうか、あなたは桜川を見たかったんだね、ここが、貴女のふるさとだよ」
 と呟き、その面を持ち、周囲の景色が見えるように、空中に掲げた。今考えると、その行為はいささか芝居じみていて気恥ずかしいが、私はその時、率直であり、本気であった。家に持ち帰り、壁に飾ると、深井面は穏やかな笑みさえ浮かべているように私には思えた。

 後日談がある。入手直後に、リュックサックに入れたこの深井面を背負い、私は旅をした。「深井」は、愛知県春日井市(中世の遊女や傀儡子女などの宿のあった青墓に近い)で狂言師と出会い、東京の画廊での企画展に出品され、さらに伊勢市の猿田彦神社で開催されていた「猿田彦大神フォーラム」に参加して猿田彦直系の子孫である宇治土公宮司に直接手にしていただき、猿田彦神社境内にある演劇の祖神・猿女君を祀る「佐留女神社」に参拝した。さらに、秋には西都原考古博物館で開催された「九州の民俗仮面展」にも出展できた。「深井」は、他の女面とと
もに壁面を飾り、窓外にひろがる西都原の風景を、満ち足りた表情で見つめていた。

                    

[4]狭野神楽の高幣

初見から二十年の歳月を経過して私が入手した黒い女面「深井」は、いまは、福岡県太宰府市の近くに住むコレクターで私の収集と研究を支援してくださっているI氏のお宅に収まっている。仲間からは「神力で手に入れましたね」と評されたが、今の私の経済力では、到底持ちこたえることは無理なのであった。大宰府天満宮には、室町時代のものとされる黒い女面二面が伝わっている。それは、「六座の面」と呼ばれる田楽面で、天満宮付属の鋳物座、米屋座、染物座、相物座、細物座、鍛冶屋座の六座の子孫が代々伝えてきたものの一つであり、神幸式の折り、「竹の曲(はやし)」という舞を奉納する場面で使われるという。いつかまた、これらの謎の仮面たちが出会う機会が実現すると私は信じている。

私が集めた300点のコレクションの中にも黒い女面が三点含まれている。一面は能面様式の女面で、もう一面はあきらかに天鈿女命の面だと思われ、残る一面は、以下に述べる「高幣」によく似ている。
 その黒い女面は、宮崎県高原町狭野地区の狭野神楽に伝わっている。私はその仮面を1995年にえびの市歴史民俗資料館で開催された「霧島の仮面展」で見た。その時のスケッチブックには、「笑窪のある女面、鎌倉時代の年号入り」というメモがある。当時、図録はまだ出来ていなかったので、館の許可を得てスケッチしたのである。私はそのメモを手がかりに、その黒い女面こそ国内最古級の女面で、能面完成以前の仮面が民間芸能の中にあるのではないか、と考え続けてきた。その後、実地に狭野神楽を見る機会を得て、その仮面が「高幣(タカビ)」と呼ばれる女面であることを知った。現在使われている高幣の仮面は復刻面で、古い高幣面は狭野神社に保存されているということであった。
この図録には、えびの市大明司の大戸諏訪神社に伝わる「天之鈿女命」の面、同市西川北の菅原神社に伝わる「氏」という女面が掲載されていて、これも黒い女面だと思われる。いずれも制作年代の記載はないが、これらの事例により、霧島山系の神楽の「高幣」または「天宇売女命」「氏」などの演目に使用される女面に、笑窪のある黒い女面が存在する(あるいはかつて存在していた)ことがわかる。

狭野神社は、神倭伊波礼毘古命(神武天皇)を主祭神として祀る神社である。伊波礼毘古は幼名を狭野皇子といい、この地で少年期を過ごしたという伝承があり、それにちなむ史跡や地名なども多い。狭野神楽は霧島修験の影響を濃厚に残す霧島神舞系の神楽で、この狭野神社に伝わる。勇壮な剣の舞と稚児舞が花形舞で、大人二人を従えた稚児の剣舞は、狭野皇子の舞はこのようなものだったのではないか、と空想癖を刺激される。
神楽は、狭野神社本殿の神事の後、「飛出」という道化系の仮面神と「金山」という鬼神系の仮面神とに先導された一行が、狭野神社参道入り口に設えられた御神屋に下り、清澄な「壱番舞」から始まる。「高幣」は、「神楽」「神師」「壱人釼」「飛出」「金山」「志目(白い女面の舞)」と続いた後、登場する。御幣を左肩に担ぎ、扇を右手に持ち、その扇で御幣を軽く打ちながら、現れるのである。

                    

[5]狭野神楽の高幣とその周辺

 高原町狭野神楽の御神屋は、高い注連柱から四方に綱が張り渡され、御幣が下げられている。そこが正面で、背後に狭野神社、その向こうに霧島山系の主峰・高千穂の峰を控えている。中央に天蓋があり、そこからも四方に綱が張られて、神名を記した幡が下げられている。手前が入り口で、そこには小さな木の鳥居が設えられている。その鳥居をくぐって、神楽の舞人が次々と御神屋に入って来るのだが、白い御幣を担いだ真っ黒な女面の「高幣」が入って来たときには、神気が漂っているようにさえ感じた。折から、さあっ、と霧島の山脈から吹き降ろしてきた風が、御幣や幡を揺らし、ひととき、御神屋を騒がせたのである。
 高幣は、御神屋を静かに右回りに回る。そして中央に進み出て、御幣を振りながら、
 ―尺寸文のいんねんによってかのみてぐら(幣帛)をさかしまに立つる・・・
 というような意味の唱教(神歌)を唱える。次に、扇を開いて再び御神屋を三周し、
 ―(略)かのみてぐらを順に立つれば、上の根本は下の地神に交わり、下の地神は上の根本に交わるをもって注連のみてぐらと申すなり・・・と唱え、激しく舞を舞った後、退場する。隣接する同町・祓川地区の祓川神楽の資料に次のようなくだりがあるので共通点をみることができる。祓川とは、その地区を流れる小川で狭野皇子が禊祓いをしたという故事にちなむ地名で、狭野と祓川の二つの神楽は、ほぼ同様の様式と内容を伝える。

祓川神楽「高幣(タカヒ)」は白い女面の一人舞。御神屋の入り口から神棚左隅を往復、続いて右隅から入り口を往復して、入り口で唱教。それを三回繰り返す。その後、その場で回りを見渡し、用を足す所作をして御神屋を一回りして、退場。唱教は
 ―さいしょうさいへいさいわいここも高天の原なり、四方の神みな集まり給いて神あそびめす。幣たるここも高天の原なり。
祓川神楽には「宇治」という演目があり、狭野神楽の志目、えびの市菅原神社の「氏」と対応する。同「宇治」は鬼面の一人舞。唱教は
 ―そもそもかの幣帛を持することは、八百万世の神明を崇敬申さんためなり。そもそもかの幣帛を逆さに立てて見るに、不生不滅なり、かるがゆえに順に立てて見るに、和合のちりに交わって五行の神ぞ現れぞする。
 狭野神楽の飛出、金山、志目、高幣の四神は次の「四つのこと」という番付、祓川神楽の飛出、金山、宇治、高幣の四神は「幣貰之事」という番付で次々に登場し、御神屋を巡った後、「高幣」が中央に置いた幣帛を順に取り、激しい舞を舞って退場する。
 以上の例は、前述のえびの市大戸諏訪神社の黒い女面「天之宇売女命」と白い笑窪のある女面「陰女」とも対応する。これらの事例により、霧島神舞系の神楽に登場する「志目」「氏」「高幣」「天宇売女命」などの女面が白と黒の一対で登場し、御幣の力によって神を招き、場を清める舞、鎮魂の舞などをする役割を担っていることがわかる。そして、それが、上代朝廷の祭儀にかかわる神巫(みかんなぎ)の系譜をひくものであることがわかる。

               

[6]米良・速川神楽の神和(かんなぎ)

西都市・西都原古墳群の北方、一ツ瀬川の岸辺に、瀬織津姫を主祭神とする速川神社がある。米良山系を源流とする一つ瀬川は、大小四十を超える支流を持つ大河である。流域には、西米良の村所神楽、小川神楽、旧東米良の銀鏡神楽、尾八重神楽、中之又神楽(小丸川水系)などの「米良系神楽」と総称される神楽を伝える村々を擁する。その一ツ瀬川が、激流となって米良の山脈を縫うように流れ下り、ようやく平野部にかかろうとする辺りに速川神社が位置するのである。

瀬織津姫とは、謎の女神らしい。少し調べてみると、この神は、黄泉の国で伊邪那岐命が伊邪那美命の死体を見て逃げ帰った時に穢れを祓った神だとされたり、天照大神の同名異神とされたり、あるいは遠野のオシラ神、早池峰山の山神、熊野神などともされ、全国に分布する。熱烈な支持者や研究者によると、大和朝廷から執拗に抹殺されようとした神、縄文の地母神などともされる。しかしながら、神道の最高祝詞とされる「大祓詞」に「高山の末短山の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に座す瀬織津比売という神、大海原に持ち出でなむ」というくだりのあるところをみると、速瀬を流れ下る川の勢いによって人間の罪や穢れを大海原に押し流す自然神であることがわかる。そしてその記述に最も近いのが、日向の国一ツ瀬川沿いの速川神社の瀬織津姫であることもわかる。
 速川神社の本殿は、一つ瀬川の支流を遡った細い谷川の上流にあり、背後に滝があって禊をする水場もある。本殿内部には、左手に御幣を持ち右手には鈴を持った女神が、亀に乗り、龍を従えた神像風のオブジェがある。それが、滝神・水神としての瀬織津姫である。

昨年(2005)の12月12日、速川神社の大祭に奉納される速川神楽を見る機会を得た。速川神楽は、やや下流にある穂北神社を本拠とする「穂北神楽」の社人がつとめる。穂北神楽は、そのまた下流の西都原古墳群に隣接する南方神社の南方神楽にも奉納され、米良系神楽に分類されている。南北朝伝説を秘め、修験道の影響を色濃く残し、猪狩りや鹿狩りの習俗との習合がみられる米良系神楽についてはいずれ詳述するが、この米良系神楽に「神和(かんなぎ)」と呼ばれる番付があることに注目しておくべきである。
 中之又神楽、尾八重神楽、銀鏡神楽などに登場する神和は、いずれも白い女面の神だが、
 御幣を担ぎ御神屋を静かに三周し、中央で唱教(神歌)を唱え、次に扇を開いて三周し、静かに退場する。先述した狭野神楽の高幣と同様の舞振りであることがわかる。速断はできないが、古代、宮中で舞われたという御巫(みかんなぎ)の舞こそ、このような舞だったのではないか。速川神楽でも同様式の女面が登場した。米良系神楽の中では速い調子の勇壮な舞で知られる神楽だが、神和の舞は静かで優美であった。唱教の後の中央の舞では、振りかざした御幣が一ツ瀬川の川風を受けて鮮やかに翻った。白い神衣の袖は、米良の山塊を照らす午後の陽射しを受けてほのかな赤みを帯びた。
 米良系神楽の「神和」は、巫女舞とも天鈿女命の舞ともいわれ、地域・神楽座によって微妙に呼称を変える。速川神楽の神和は瀬織津姫と同一神ではないようだ


[7]米良・中之又神楽の神和

 月が出た。
 黒々とした山塊の奥深く抱かれた村の神社では、年に一度の神楽が開催されていた。
 その御神屋の斜め上方の、黒い山嶺を光らせて、ぽっかりと銀色の月が浮かんだのである。女が一人、神庭から踊り出て、月に向かって手を広げ、その手を宙に漂わせながら、神社の裏山へと続く細道に消えた。神楽の囃子に浮かれたのか、幻月に誘われたのか、男の呼ぶ声に導かれたのかは、定かでない。
 米良の神楽せり歌には
 ―今宵ひと夜はお許しなされ、人のかかでも娘でも
 という、過激な歌詞がある。昔、神楽の夜は、一年に一度、ひそかな恋が結ばれる時であったという。

 宮崎県木城町中之又地区は、旧・東米良の最東部に位置し、北は椎葉の山脈、東は日向市域に隣接する。中之又という地名は、七つの谷の集まる所という意で、集まった谷は椎葉を源流とする清流・小丸川に合流し、西南方へと流れ下って日向灘に注ぐ。この中之又地区は古式の鹿狩りと鹿狩りの神楽「鹿倉舞」を伝える村である。この「カグラ」の語源の一つとも考えられる鹿倉舞や「宿神」、「盤石」と呼ばれる黒い老女の面、「住吉」の黒い翁などについては別項で触れるが、ここでは、「神和」を見ておこう。
 中之又神楽の神和は、神楽中盤に登場し、これまでに述べてきた狭野神楽の「高弊」や米良系神楽の神和と同様の舞を舞う。仮面は白い若女の面で、能面の若女とは違った強い表情をしているが、舞は静かで美しい。地元の人は、この女神を「シモテラスヒウリヒメ」とも「ウズメ」とも呼ぶらしい。シモテラスヒウリヒメを文字に置き換えると下照日売姫となり、天照大神と対応する土地神として月の女神または天若彦の妻・下照姫を思わせるが、ここでは天鈿女命の舞と混交している。総じて、米良系神楽の神和は、岩戸開きの始まる前に舞われる清めの舞としての役割をもっているようにみえる。けれども、天鈿女命の岩戸の前での半裸の舞や猿田彦との出会いの場面での性的な所作を思わせる表現はない。
 一方、「磐石」「杓子面」「室の神」などは、黒い老女面や歪んだ顔の女面などで、背に籠を背負ったり、杓子と飯椀を持ったり、男根を隠し持っていたりして子孫繁栄や五穀豊穣を祈り、増殖儀礼としての男女の交わりを説く。この場面では、天鈿女命と伊邪那美命とが混交している。火の神=竈荒神の信仰と混交している例も多く、この場合は「ヘグロ(灰黒)」と呼ばれる竈の煤を塗った黒い面が登場する場合、火の神御幣をかざし、台所から舞い出て台所へ帰って舞い収めるという例などもある。

以上の事例により、霧島神舞系の白い女面「志目」「天鈿女命」などと黒い女面「高弊」「氏」「陰女」などが対応関係にあるということ、米良系神楽の「神和」と「盤石」「杓子面」「室の神」なども同様の見方ができるということなどを定義できるが、この見方だけで黒い女面の発生を説明することはできない。謎は謎のまま残し、旅を続けることとする。


                          

[8]吹雪の村所神楽にて                

 雪は、まるで天の神からの贈り物のように、漆黒の夜空から舞い落ちてくる。そして、高い注連飾りにも、神庭にも、次々と降りかかる。降りしきる雪の中で、神楽が舞われている。雪が、中世の絵巻の一こまさながらに、山峡の一夜を荘厳した。
 西米良村・村所地区は、町の中心部で大きな二つの川が合流している。東は、椎葉の山脈を源流とする川。西は、熊本県との県境にそびえる市房山を源流とする川。いずれも、急峻な崖を洗い、山谷を縫って流れ下ってきた川である。村所で合流した川は一ツ瀬川となって米良山系の山々を削り、西都市方面へと流れ下る。川沿いの道もまたこの地で交わっている。大きな川と主要道の交点に栄えた村所は、古くから、文物の集散する土地で、今もなお山中の小都市の風情を残している。瀬音が山と山に響き、山気は、藍色に風景を染める。村所神楽は、この町を見下ろす高台にある村所八幡神社に伝わっているのである。

村所八幡神社は、南北朝時代、米良に足跡を残した後醍醐天皇の第十一皇子・懐良親王を主祭神として祀る。懐良親王は、後醍醐天皇が足利尊氏に敗れ、吉野に逃れて「南朝」を開いた後、南朝の再興を期して九州へと送られた。懐良は、二十年近く九州を転戦し、肥後の豪族・菊池氏と結んで大宰府を押さえ、一時は九州を平定するが、足利幕府が派遣した九州探題・今川了俊に敗れて、菊地の残党とともに米良へ入山するのである。懐良親王終焉の地については、福岡県星野村説、熊本県八代説などがあるが、米良もまた伝承地の一つである。米良では、親王没後の文明3年(1471)に村所に「大王之宮」を建て、鎮魂・供養のため神楽を奉納、これが米良系神楽の起源と伝える。
 村所八幡神社には、懐良親王の子・宗良親王、米良の領主・米良重鎮等も合祀され、神楽には、「大王様」(懐良親王・黒い翁面)をはじめとして、「じい様」(宗良)、「八幡様」(重鎮)などが次々と登場する。これらの南朝にかかわる神々の登場する神楽は神事性のつよい「神かぐら」と呼ばれ、後半部は「里かぐら」と呼ばれて、神楽せり歌が歌われたり、神庭で観客が祝子を真似て即興の神楽を舞い始めたりしてにぎわうのである。十年ほど前のことだが、大酔した若い女性が、突然上衣を脱ぎ捨て、黒いレオタード姿となって踊り始めたことがある。これもまた「もの狂い=神がかりの女」の舞であった。舞の途中で、私と視線が合った女は、ひらひらと白い手を振り、招いた。私は一歩を踏み出した。

 神楽終盤の「大神様」では黒い女面を着けた少年が現れ、神屋の隅に座る。扇で顔を隠している。これが天照大神である。続いて力強い鬼神系の仮面を着けた手力男命が勇壮に舞い、続く「戸かくし」で白い若女の面を着けた天鈿女命が舞う。舞い振りはこれまでにみてきた米良系神楽の「神和」(巫女舞)に類似するが、早い調子の神事性の強い舞である。このころ、夜が白々と明ける。「岩戸」が開くのである。
全国的に大雪に見舞われた去年(2005年)の村所神楽は、数十年ぶりという、南国宮崎には珍しい雪の夜となった。神楽が中盤にさしかかるころ、吹雪となったが雪の舞い込む神屋で、祝子たちは舞い続けた。南朝の絵物語――夢幻能――を見る思いであった。


[9]女性芸能の祖神の舞―高千穂秋元神楽の天鈿女命―

高千穂町向山秋元地区は、高千穂町の中心地・三田井地区からさらに山間部へと入り込んだ渓谷沿いの集落である。深い谷を渡り、対岸に高千穂の村々を望みながら越えていく道は、東洋の仙郷へと続く道を思わせる。道が行き止まりとなったところに秋元神社がある。神社の裏手は高い岩峰となっており、雲が松樹をかすめている。秋元神楽は、この秋元神社に伝わる。夕刻、神事のあと神社を出発した一行は、猿田彦に先導されて神楽宿へと舞い入り、終夜、舞い継がれるのである。

 秋元神楽は、辺境部にあるため高千穂神楽の古形をとどめているといわれる。「岩戸開き」では、白い若女の面を着けた天鈿女命が、左手に御幣をかざし、右手で鈴を振りながら、舞う。美しい巫女の舞である。
 「古事記」「日本書紀」が書かれたのは、八世紀のことであるが、現在わが国に存在する文献としては最古のものであることは周知のとおりである。そこに描かれているのは、大和王権樹立の物語で、その時期は三世紀〜七世紀のことだと推定されるので、物語の展開期と記録時期とには数百年の時間差がある。が、古代中国の歴史書「春秋戦国記」「春秋左氏伝」「史記」なども同時代(春秋戦国時代)のことを記録しながら、四千年〜五千年前の伝説の王朝「夏王朝」のことまでを語っていることをみれば、それらの中国古代史書をテキストとして書かれたと思われる「記紀」は同様式を踏まえているとみなければならない。
「記紀」では、天照大神の「岩戸隠れ」により闇となった高天が原に光明を取り戻すために舞った天鈿女命の「神がかり」、「俳優」の場面を次のように記述する(要約)。
 『天宇受売命、天の香山の天の日影をたすきにかけて、天の真拆を縵にし、天の香山の小竹葉を手草に結い、天の岩屋戸に?気伏せて踏みとどろかせ、神がかりして、胸乳を掛け出で裳紐を番登に忍し垂れて・・・(古事記)』『猿女君の遠祖、天鈿女命、手に茅纏の?を持ち、天石窟戸の前に立ち、巧みに俳優す。また天香山の真坂樹を鬘にし、蘿を手繦にして、火処焼き、覆槽置せ、神がかりす・・・(日本書紀)
 すなわち、天鈿女命は、岩戸の前に立ち、つる草を冠とし、榊葉または鉾を打ち振り、半裸になり、桶を踏みとどろかせて神がかり状態となって、鎮魂・招神の舞を舞う。これにより、八百万の神々がどっと笑いどよめき、天照大神の出現をうながしたのである。これが「神楽」の原型であり巫女舞の源流であるとされている。天鈿女命の子孫・猿女君は宮廷の祭儀を司る職掌として代々その芸能を伝えた。やがてそれは、宮廷や神社に付属する御巫(みかんなぎ)の祭儀、白拍子の舞、曲舞、傀儡子女の舞、遊女の舞、女歌舞伎などへと変転しつつ、時代相を映してゆく。九州の神楽に残る「神和(かんなぎ)」や「高弊」「天鈿女命」などの芸態が、これらの女性芸能の系譜の上にあり、古式を伝えていると考えることは不自然ではない。しかしながら記紀が描く性的な所作や「笑い」を誘う芸などが少なく、呪術性の強い舞いが多いという特徴には留意しておかなければならない。



[10]諸塚神楽の天照大神                 

 高千穂町・秋元地区から山道をたどり、大きな山脈を超えると、諸塚村に至る。つまり、山の東側に高千穂・秋元があり西方に諸塚があるという位置関係である。古来交流があったこの二つの地域の神楽は、互いに影響を与えながら古い型を残しているといわれる。
 諸塚村は、標高700〜900メートルの山地に集落が点在する。急峻な斜面を切り開き、焼き畑を中心とする山地農業が発達した。冬は猪や鹿を狩り、山仕事で生計を立てた。
 尾根に立つと、アジアの山岳の村と同様の景観が眼前に展開する。神楽は、高千穂神楽と同様に、山中の神社での神事の後、神楽宿に舞い入り、終夜、舞われる。十年に一度開催される「大神楽」では、神楽五十番が二日がかりで奉納され、そのなかには、山中からつる草をまとった山人が駆け下りてくる「山人走り」という儀礼もあり、興趣は尽きない。

 「春秋左氏伝」によると、古代中国の紀元前700年頃の「魯国」において、日食があったこと、その折、社で鼓を打ち鳴らし、生贄を供えて祭りを行ったことなどが記録されている。同書は、周王朝の衰退(西暦・前770年=魯の隠公元年)から、哀公14年(魯の滅亡と晋国の樹立)までの約240年間分の記録である。ここには、周王を中華の中心である「天子」とし、その属国の主としての諸国・諸侯とそれをとりまく英雄群像、思想家、学者の存在などが描かれ、なお、王家、諸侯の祭祀などが記される。これをみれば、今から二千数百年も前に、すでに古代中国において、「神楽」の原型とみなされる祭祀が確立していたことがわかる。天照大神の「岩戸隠れ」は日食の折りの「日乞い」の祭祀であり、天鈿女命の岩戸の前の舞と同様の儀礼が行われていたこともわかる。ちなみに同書には、日食のことが三十数回記録されており、それは現代の天文学のデータと照合し、計算すると、実際にあった日食の日時とぴたりと一致するという。

「七つ山」と呼ばれる諸塚村の最奥部の山の渓谷で拾った青い石を、長い間持ち続けていた。その石を見るたび、生まれ育った故郷の山の村の景色と、諸塚神楽のさまざまな場面が眼前によみがえり、私は郷愁と旅情とが混交した、青みがかった水墨画の世界に遊ぶのであった。幾つもの事情が重なり、長年住み慣れた湯布院を去って宮崎へと移住することになった時、私は七つ山の峠を越え、青い石を、谷の流れへと戻した。それから数年後、久しぶりに諸塚神楽を訪ねた。そこには、点在する集落の上を白い雲が流れ、澄んだ空気が心にしみる、昔と変わることのない風景があった。夜通し舞われる神楽の中に私は引き込まれ、村人や舞人たちと会話を交わした。
 「岩戸開き」では、小学校低学年の子が、天照大神の面を着けて、屏風で囲まれた空間(そこが岩戸である)に座り続ける。その脇に、舞人が座る。一晩中、神楽を舞い、観客をもてなし、進行にも気を遣っていた舞人で、天照大神役の子の父親らしかった。手力男の舞が終わり、天照大神が岩戸から出た瞬間、朝日がその顔を照らし、神々しい光が神屋に満ちた。舞人の頬に一筋、涙が流れていた。神面に向かい、手を合わせる村人の目にも、光るものがあった。

               

[11] 黒い女面に導かれて               

 「黒神子」という一行が目にとまった。ちょっとドキドキした。
このところ、私は、九州の神楽に散見される「黒い女面」と、日本の芸能史における女面発生の謎を追って旅を続けているのだが、資料が乏しく、途方にくれているところだったのだ。「クロミコ」という響きは、縄文時代の土面を使って祭祀を行なう原始的な巫女、「卑弥呼」につながる古代のシャーマン、あるいは、民間の呪術者の存在などを思わせ、私の空想癖を激しく刺激する。

その黒神子に関する一行とは、網野善彦著「中世の非人と遊女」(講談社学術文庫/2005。原本は明石書店刊/1994)の中の「中世における女性の旅」の項で、文字通りほんの一行、貞和三年(1347)若狭の国太良荘の百姓本阿の息女黒神子が財物を奪い取られたとして申し状を書いて争い上洛の旅をした、とあるのみで、頼りない。
 早速、インターネットを駆使して調べてみた。ところが、そこに立ち現れたのは、私の期待に反して、おじさま族のアイドルらしきアニメの主人公であった。色っぽい写真が添えられた画面もあった。落胆のあまり、すぐに消去しようと試みたが、うまく消えなかったので、まてよ、と思い直し、次へ→次へ→というコーナーを丹念に何度もクリックしてみた。すると、12回目ぐらいのクリックで、やっと出た。それは、網野氏引用の文献と同種のものと思われる「『福井県史』通史編2中世」の記述で、南北朝期の同地太良荘の「黒神子」という小百姓の財物として米、粟などの食料の他に布(小袖、帷、綿など)が挙げられ、さらに数種の鉄製品とともに「鍬」が挙げられ、なお、「黒神子はその名から巫女と考えられる」という注釈がついていたのである。
これによって、「黒神子」という帷や呪具とおぼしき金物などを所有していた巫女を思わせる女性が、南北朝時代に存在していた、という一件が確認できる。もとより、ここにはこの女性が仮面を所持したとか、黒い仮面を用いて呪術あるいは芸能を行ったという記述があるわけではないので、これ以上想像の翼を飛躍させないことにしておくが、今後、黒い女面と女面発生の謎をめぐる重要なキイワードの一つとして記憶しておくこととする。

 網野氏は、この書で、天皇や神仏の直属民であり、呪術的祭儀をとり行なった供御人、神人、寄人などに連なる存在として、非人、川原者、遊行宗教者、芸能民、遊女などを取り上げ、かつては聖なる存在として王権に直属していたこれらの職能民が、次第に差別化され、零落しながらも「聖」と「俗」の境界にあって、祝祭と芸能の担い手であり続けた事実を明らかにしてゆく。脇田晴子著「女性芸能の源流」(角川選書/2003)でも.天鈿女命の天の岩戸の前での舞い=鎮魂儀礼=神楽を女性芸能の源流と位置付けながら、その子孫・猿女の君の系譜がつとめた宮廷の御巫、王家の葬儀の際の殯を行う遊部などが、後に天皇の側に侍る白拍子から曲舞い、傀儡子女、遊女などの女性芸能者へと変転する経緯について述べているが、ここでも、女面発生に関する手がかりは少ない。今はただ黒い女面と黒神子という言葉の響きが、異界へと導く記号のように私を誘い続けるだけである。

                 

*この文は、西日本新聞宮崎県版「みやざき/民俗仮面と祭り」(2006年3月16日〜5月8日)に連載されたものです。続きは、『九州民俗仮面考「猿田彦」』のページへどうぞ。

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