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九州民俗仮面美術館
(2006/3月5日開館)

祈りの丘空想ギャラリー
緑の空想散歩道
自然布織り/森の空想工房


住所・宮崎県西都市穂北5248−13
TEL・FAX 0983−41−1281




 祈りの丘空想ギャラリー

 祈りの丘ギャラリーは、かつて石井十次とその仲間たちが祈りを捧げた古い教会を改装し、絵画展や写真展、演奏会などの会場として利用しています。遠景には<遠く米良の山脈が霞み、周辺には茶臼原ののどかな田園風景がひろがっています。


黒猫ヤーヤの一日
作・ポンポン船
2012年9月12日−10月20日

(1)
オープン
 

絵と文 -ポンポン船

[黒猫ヤーヤの一日について]
今回の展示は、黒猫ヤーヤを主人公にしたお話です。
ヤーヤはどこにでもいる一匹の猫。けれどその日常
には、なんだか不思議なことが自然に転がっている。
もしかしたらそれは、いつもどこかで起こっている
事なのかもしれません。ちょっとおかしな日常世界、
黒猫ヤーヤの一日を、一緒に歩いてみてください。

会場となる祈りの丘空想ギャラリーは、緑に囲まれ、
とても穏やかに時間が流れています。かつては教会
として、今はギャラリーとして人々の集う、開放的
な清々しい空間です。ぜひ一度訪ねていただけたら。

銀杏並木の小道の先で、ヤーヤがお待ちしています。
私たちポンポン船の絵と文でお届けする今回の展示。
一冊の絵本を開くように、ご覧頂けると嬉しいです。



[ポンポン船について]
ポンポン船は、ジュリアーノ・モレと、
なまこゆりこの2名で活動しています。
のんきときらりでのんきらり
それがポンポン船のモットーです。

現在はホームページ、イベント、
展示会などを通じて、のんきらりを
発信しています。どうぞご覧下さい。

ポンポン船 ホームページ
http://ponponsen.con



(2)
ふしぎな一日の始まり


旧・教会を改装した「祈りの丘空想ギャラリー」での企画展「黒猫ヤーヤの一日」の初日の午前中、
ポンポン船の二人、ジュリアーノ・モレさんとなまこゆりこさんは、まだ展示作業を続けていた。
前日、緊急事態が発生し、作業が遅れたのだ。
カメラをかついでその様子を見に行った。
大型の台風が接近中で、すでに断続的に強い雨が降ったり、晴れ間が見えたり、
時折、風がごおっと森を揺らしたりしていた。


写真を撮っていると、突然、レンズの中が白く煙って、二人の姿がぼおっとかすんだ。
夏の間じゅう降り続いた雨による湿気と、この日の雨とで湿っていたカメラが、突然の太陽光で暖められて内部が曇ったものだった。構わずに撮り続けていると、その水蒸気のフィルター効果で、面白い写真が撮れていることがわかった。


日常、見慣れている風景が、幻想的な光景に変わった。


「黒猫ヤーヤの一日」は、どこにでもいる一匹の黒猫が、雨上がりのある日、窓をたたく音と窓の外の光に誘われて、旅に出る物語。



(3)
みちしるべ


やっと、会場入り口の看板を立てた。展覧会が始まって、すでに一週間が過ぎていた。
「黒猫ヤーヤの一日」展の会場の「祈りの丘空想ギャラリー」へと続く道の脇にはヒガンバナが咲いている。雨の多かった夏はいつの間にか通り過ぎ、季節はすでに秋へと移行しているのだ。
看板書きが遅れたのは、降り続いた雨の影響と、大分から由布院へと廻ってきた小旅行のせいだが、それは言い訳にすぎない。もともと私には「看板」に対する拒絶感があるのだ。
由布院で暮らしたころには、多くの看板を書いた(書かされたという一面もある)。今度の小旅行でも、いまだにその当時の私の文字をそのまま使っている店舗や施設を目にした。今思えば、「下手=素朴さ」という曖昧な価値観と、後にブームにさえなった「へたうま=下手でも懸命に書いた絵や文字は好感がもてる」「うまへた=上手が下手・素朴の真似をした鼻持ちならない作品」という価値観などと絡み合いながら、「由布院」という土地柄が私の文字を珍重したわけだが、そのことは、他の「書き手」をも呼び込むこととなり、ひいては看板の乱立を招き、1970年代には制定されていた「湯布院町屋外広告物条例」というすぐれた価値基準を有名無実のものとした。その苦い思いが、「看板」に対する否定的な感情となって私の手を鈍らせるのである。


看板を書くたびに、「みちしるべ」という言葉を念頭に置くことにしている。
「祈りの丘空想ギャラリー」のある「石井記念友愛社」の一帯は、昔から「三方境」と呼ばれて所在が分かり難かった場所らしい。三方境とは、高鍋・西都・木城の三つの地域が境を接する土地ということで、古くは、こちらで死人が出るとあちらへ持っていって捨て、あちらの役人がまた向こうへ捨てに行き、責任転嫁の応酬が繰り返された、という本当か嘘か判然としない伝説さえ残されている。「気≠ェ交わる所」という人もあって、解釈をさらにややこしくしている。それがこの土地なのである。
道に迷ってたどり着けないという人たちのために、やはり、「みちしるべ」はなければならぬ。


看板を立てて、「黒猫ヤーヤの一日」展の会場へ着くまでに「看板=みちしるべ」という概念についての考察を蒸し返し、思わぬ時間をつぶした。
会場には、絵本のコーナーやオリジナルポストカードのコーナーなどがさりげなくコーディネートされていて、居心地の良い空間が設定されている。
「ポンポン船」とは、若い女性二人が一組として活動しているアートユニットで、高鍋町舞鶴公園で今年の四月から五月へかけて開催された「こもれびクラフト展」で知り合い、今回の企画展が実現した。二人は、手づくりの絵本を作ったり、店のコーディネートを手がけたり、各地のアート&クラフトイベントに出掛けたりして活動しているらしい。空間作りはお手のものだ。展示と制作が同時に進行するキャンバスもあったりして、それもまた好ましいインスタレーションとなっている。




「黒猫ヤーヤ」は、雨上がりの水溜りに映った自分の姿に話しかけたり、大好きな木登りで「ワタリフウセン」に出会ったりして、旅に出るのである。


会場正面の油絵の作品の足元に、窓の外からの光が射し込んで、美しい図形を描いている。
その光と影に沿って、静かに時が過ぎてゆく。



 舞踏譜―南仏ペルピニャンから―
末松正樹遺作素描展




会期 2012年4月10日―5月20日
会場 祈りの丘空想ギャラリー

   宮崎県西都市穂北5248
   TEL090−5319−4167(担当・高見)
*最終日(5月20日)は木城町石河内ギャラリー稗畑に移動して
 「天井桟敷の父へ」香山マリエと語る会を開催します。



末松正樹(1908−1997)は新潟に生まれ、幼い頃より絵を描いていたが、
画家一筋の道には進まず、1933年に上京した後は、勤めの傍ら、
高校時代から興味を抱き続けていたドイツのモダンな舞踏「ノイエ・タンツ」を学んだ。
 末松は、1939年にパリで開催された日本舞踊展覧会に出演するために渡仏し、
第二次世界大戦勃発後もフランスにとどまり、美術学校へ通い、
現地の画家たちと交友を深めた。1940年、マルセイユの日本領事館の仕事に携わるが、
その3年後、戦火に追われて逃れる途中、スペイン国境に近い南仏の町
ペルピニャンで捕虜となり、拘束されて一年あまりを過ごした。厳しい監視下に置かれ、
外出さえままならないホテルの一室で、紙と鉛筆だけを手にして描き続けた絵が、
ダンスを中心とするデッサン群であり、末松の画家としての出発点となったものである。
 終戦の翌年(1946)、日本に帰国した末松は、
活発にフランス美術や映画を紹介する文章を発表し、画家としても活動した。
マルセル・カルネの映画を「天井桟敷」と訳したことでも知られる。



末松正樹は、1923年(15才)から1926年(18才)まで、父親の宮崎県立宮崎中学校の
英語教師赴任のため一家で宮崎へ移住し、同校へ転入、3年間を過ごした。
南国の明るさは北国育ちの正樹に新鮮な驚きと感動を与えたという。このころ、
美術への関心が高まり、本格的に絵筆を手にカンバスに向かう。
2年下の吉加江京二と展覧会も開いた。宮崎の近くには武者小路実篤が実践した
「日向新しき村」があり、村の芸術家たちが宮崎で催した展覧会で
草土舎風の油絵を目にする機会があった。
また、新しき村iに近い茶臼原在住の光瀬俊明が出していた雑誌「生活者」を愛読し、
学校の文芸誌に詩を寄稿した。



 今回の企画は、当地を訪れ、茶臼原の景観や「祈りの丘空想ギャラリー」
をご覧になったこともある近代美術研究家の後藤洋明氏(東京在住)
の発案によって実現した。後藤氏は、日本の美術史に重要な位置を
占めつつある末松が多感な時期を宮崎の地で過ごしたことは、
彼の一生に影響を与えたと思われるが、この時期の資料が少ない。
ゆかりの人のお話や、新たな資料などが得られる機会となればありがたいと話している。


穏やかな春の午後
末松正樹展開幕



咲き競っていた山桜の花も散り、いつの間に葉桜となった。かつてこの茶臼原の大地を切り開き、「福祉と芸術の融合による理想郷づくり」の夢を掲げた石井十次とその仲間たちが敬虔な祈りを捧げた旧・教会を改装した「祈りの丘空想ギャラリー」の空間は静謐な空気感に満たされた。第二次世界大戦のさなか、逃避中のフランス・スペイン国境の町で捕虜となり、一年間をホテルの一室に拘束されたまま、絵を描き続けた画家・末松正樹の作品が、ギャラリーの壁面に並んだ時、そこには時代を超越した清澄な音楽のような響きと、微かにゆらぐ風のような気配が漂ったのである。



新潟県新発田市生まれの末松正樹は、14歳までを郷里で過ごすが、15歳の時、父親の宮崎県立宮崎中学校への転勤にともない宮崎に移り住み、三年間を過ごす(1924−1926)。南国の明るさや、当時武者小路実篤によって開かれていた「日向新しき村」、県内に横溢していた活発な芸術文化の気風などが、北国育ちの正樹に大きく影響を与えた。当時の宮崎は、新しき村に集まった芸術家たちが草土舎風の絵を描いて宮崎市でグループ展を開いたり、茶臼原では石井十次の友愛社が開拓を進めたりしていた。正樹は、この時期に本格的に絵筆を持ちキャンバスに向かったり、カンディンスキーの「芸術論」を読んだり、茶臼原在住の光瀬俊明が発行していた雑誌「生活者」を愛読したりした。



その後、山口、郷里新発田などを転々とするが、23歳の時(1931年)上京。絵画や音楽、詩、舞踏などの仲間と交流する。ことにドイツの舞踏「ノイエ・タンツ」との出会いがその後の運命に決定的な影響を与える。31歳の時(1929年)、日本の舞踏を紹介する一行の一員として渡欧し、パリで過ごす。ここでも多くの芸術家たちとの出会いがある。が、第二次世界大戦が勃発し、当時マルセイユ領事館に勤めていた末松は、帰国せず、ドイツ占領下のフランスで過ごすこととなる。そして大戦末期にスペインに脱出を図る途中、国境の町ペルピニャンで拘束され、一年間をホテルの一室に監禁されて過ごす。この俘虜時代に、踊る人の群像を描き続け、それが次第に抽象化されていった。
今回展示された作品の多くは、その時期に描かれたものである。ペルピニャンでは、ドイツ軍に協力したフランス人も捕まって銃殺されるなど、生死の境に身を置くが、作品群からは、「戦争」の音は聞こえず、むしろ静かな詩情と音楽のような響きさえ聞こえてくるのである。末松の身の処し方を、絵に逃避した、とか、芸術に救いを求めたという見方をする人もいるが、私は、この画面に漂う静謐な空気感こそが、末松正樹の絵の資質であり、作家としての体質だと思う。家族との葛藤や、女性遍歴、「弱さ」や「卑屈さ」などもまた一人の画家の一面ではあろう。だがそれらを含めた全体が末松正樹という画家・舞踏家なのであり、そして残された素描群に漂う清澄な音楽性と詩情こそが、この画人の特質であろう。
穏やかな春の午後、作品を展示しながら私が抱いた感想は、以上のようなものであった。




終戦の翌年(1946)、末松正樹は日本に帰国した。独学で絵を習得し、舞踏家としても活動した末松は、戦後の日本でフランス美術や映画を紹介する文章を発表し、画家としても活躍した。マルセル・カルネの映画を「天井桟敷」と訳したことでも知られる。復興期の日本の芸術・文化の指針となる活動を展開した文化人の一人であったといえよう。今、その末松正樹の美術史的掘り起こし作業が始まっているという。この展覧会を機に、宮崎での末松の軌跡に光が当てられることを願うものである。




瑛九と末松正樹の接点
(1)




緑の風が茶臼原の大地を吹き抜けてゆく5月9日、一人の男性から電話をいただいた。
「末松正樹の縁戚のものですが・・・」
というのである。上記の新聞記事を見て、連絡を下さったものであった。
ぜひとも、お会いしたい旨を伝えると、次の日、
「今、会場にいます。」
という電話がかかった。
[舞踏譜 末松正樹遺作素描展―南仏ペルピニヤンより―]と題した企画展が開催されている「祈りの丘空想ギャラリー」と私の住んでいる「森の空想ミュージアム/九州民俗仮面美術館」は
同じ敷地内にあり、歩いて3分ほどの距離なので、すぐにそちらに向かった。
会場には、もう一人のお客様がおられた。西日本新聞宮崎総局の藤崎真二デスクで、
ちょうど、この展覧会の取材にお見えになったところ、その人「法元加夫(ほうがますお)」さん
と出会ったばかりだということであった。法元さんのお話を伺うことと取材とが
同時に進行するかたちとなり、その過程でいくつかのことがわかり、下記の記事が出たのが今朝である。



この記事は紙面の半分ちかくある大きなもので、この画面では読み取れないので、
ここに全文を転載する(法元さんとの出会いのきっかけとなった宮崎日日新聞の記事は
判読可能なことと内容に重複も多いので転載を省略)。

2012年5月12日付西日本新聞南九州ワイド版掲載記事
[大戦末期の仏 軟禁下で制作/末松正樹の遺作展 ]

第2次大戦後、美術や映画を通して欧州文化を日本に伝え、抽象画家としても活動した末松正樹(1908−97)の遺作素描展「舞踏譜 南仏ペルピニヤンから」が宮崎県西都市穂北、森の空想ミュージアムの「祈りの丘空想ギャラリー」で開かれている。入場無料 20日まで。
末松は、新潟県生まれ。英語教師の父親の転勤で宮崎に15〜18歳まで住んだ。
1939年、ドイツ舞踏を学んでいた縁でフランスに渡り、終戦翌年までの約7年間滞在した。
その間、美術学校に通い、現地の画家とも交流した。
同展に並ぶのは、大戦末期にスペイン国境に近い町ペルピニヤンで捕虜となり、ホテルの一室で軟禁生活を送りながら鉛筆で描いた約40点。ダンスを題材に具象から抽象へ移行する作品群からは「画家としての一生を決めた画風への変遷が読み取れる」。同ミュージアムの高見乾司館長は言う。
閉幕を前に娘の香山マリエさん=東京都在住=を招き、19日は宮崎市・平和台公園内のギャラリー「ひむか村の宝箱」で囲む会を、最終日は会場を同県木城町石河内の「ギャラリー稗畑」に移し、講演会を開く。武者小路実篤が開いた「日向新しき村」のある所で、若き末松が影響を受けたという。
いずれも午後2時から。無料。
[瑛九の前衛性探求に光/縁戚関係判明 二人に接点の可能性]
宮崎県西都市で開催中の末松正樹遺作素描展は末松が宮崎に約3年間暮らした縁で開かれた。同展を通して末松の関連資料の発掘を期待しての開催だったが、宮崎の生んだ「日本の前衛美術の先駆者」瑛九(えいきゅう/本名・杉田秀夫、1911−60)と縁戚関係にあることが明らかになった。研究者の間でもほとんど知られていないことで、関係者は「このつながりは瑛九の作風の
成り立ちを知る上で極めて興味深い」と話している。
瑛九は48年の生涯で絵画、フォト・デッサン、リトグラフ、コラージュなど多彩な芸術活動を展開。
版画家池田満寿夫氏らも指導し、前衛芸術に大きな影響を与えた。
同展の開催を知って10日、来場した法元加夫(ほうがますお)さん(78=同市妻=)によると、叔父が末松の姉と結婚。叔母の母、すなわち法元さんの祖母の弟が瑛九の父親、杉田直氏という。
末松は、7年間のフランス生活の中で多くの芸術家に触れ、欧州画壇の息吹を吸収した。「今回の遺作展の作品もピカソやモディリアーニといった抽象を切り開いた人々と共通のスタイル、
画風が感じられる」(高見乾司・森の空想ミュージアム館長)という。
帰国後は、美術雑誌で戦時中のフランス美術の動きを紹介するなど欧州文化を日本に伝える役割も果たした。映画翻訳の仕事にも関わりフランス映画「天井桟敷の人々」も彼の手による。
さらに多摩美大で53年から教壇にも立った。
瑛九は30年ごろからフォト・デッサンなど前衛的な作品に入っている。
51年、浦和市(現さいたま市)に拠点を移した。
二人の接点について、手紙など交流を示す具体的な資料は見つかっておらず、
若いころの出会いも確認できていない。48年、瑛九と出合って以来影響を受け、
再評価活動に取り組んできた鈴木素直さん(81)=宮崎市西高松町=は「共に県立宮崎中
(現・県立大宮高校)だったが、3歳違いの2人は同じ時期にはいない。
親戚として会ったという話も聞いていない」という。
ただ、高見館長によると前衛美術の推進を目的に37年結成された自由美術協会の設立
に共に参加(高見注・37年の自由美術協会設立に参加したのは瑛九。
瑛九は翌年退会。その後戦中は同会は休会。47年に再出発、この時に末松が参加。瑛九は49年に復帰)。53年には、新人発掘など美術界に影響を与えた都内の画廊で4月と8月、
それぞれ個展を開くなど交流をうかがわせる事実はある。
さらに関係者が口をそろえるのは抽象作品における類似性。「作品を見る限り、
出発は同じと感じる」(鈴木さん)
宮崎県立美術館の園田博一学芸課長は「2人の作品を見て同じ線上にあると感じた。
お互いに影響を受けた可能性はある」と話す。
好奇心旺盛で多様な表現に挑戦した瑛九。その前衛作風を探る上で、
縁戚でもあった末松の存在は新たな光になるのか。
高見館長は「今回の遺作展がもたらした情報をきっかけに、
県美術史の一端をひもとくデータが発掘されるかもしれない」と期待している。



(2)
5月11日、開催中の[舞踏譜 末松正樹遺作素描展―南仏ペルピニヤンより―](森の空想ミュージアム/祈りの丘空想ギャラリー)を訪れて下さった法元加夫(ほうがますお)氏の情報を整理しておこう。氏の情報から、昨日の西日本新聞記事のような、瑛九と末松正樹の接点が浮上し、その後、
色々なことが解ってきたのである。
法元氏によれば、末松正樹の姉・文さんが結婚したのが松本弘孝(ひろとし)氏で、弘孝氏は法元加夫さんの叔父にあたる。弘孝さんは法元家から松本家に養子に入ったので姓が変わったのだとのこと。法元家は、土地の旧家で、代々、都萬神社(西都原古墳群に隣接、木花咲耶媛を祀る)
の祭祀にかかわった氏族である。
その松本弘孝さんの母上の弟が杉田直氏(初代杉田眼科の院長)で瑛九の父君である。
すなわち、「正樹の姉・文が瑛九氏の義理の従姉」。もっと簡単にいうと、「末松正樹の義兄が瑛九氏の従弟」の関係である。ただし、末松正樹と瑛九の関係は「縁戚」であって直接の「血縁」関係ではない。
この情報をもとに、末松正樹の実の娘さんであり、「天井桟敷の父へ」という本を出版された香山マリエ氏と連絡を取り合ったが、末松家と瑛九(杉田家)の交流は希薄であることがわかった。

この間、私は瑛九と末松正樹の接点について、手元にある資料とインターネット情報とを照合し、
整理してみた。すると次のことが分かってきた。

<1群 生年と宮崎中学時代>
1908年 末松正樹生まれる。 
1911年 瑛九生まれる。
      *三つ違い
1923年 末松正樹 宮崎中学に転入
1924年 瑛九 宮崎中学に入学
1925年 瑛九 宮崎中学を退学し上京、日本美術学校洋画科に入学
1926年 末松正樹 宮崎中学卒業、上京
1926年 瑛九 上京し 美術誌「みずえ」「アトリエ」などに投稿

<2群 自由美術協会の草創期>
1937年 瑛九 自由美術協会設立に参加 翌年退会
      *戦中、自由美術協会は休会
1947年 末松正樹 自由美術協会再出発に参加
1949年 瑛九 自由美術協会に復帰
1951年 瑛九 デモクラート美術家協会を結成

<3群 タケミヤ画廊での個展>
1952年3月 瑛九 タケミヤ画廊(東京・神田)で個展
1953年4月 末松正樹 タケミヤ画廊で個展
1953年8月 瑛九 タケミヤ画廊でエッチング展
1953年12月 加藤正 タケミヤ画廊で個展

以上のように、1群・中学時代、2群・自由美術の草創期、3群・戦後美術の復興期とタケミヤ画廊の1953年というふうに重なりが見える。瑛九と末松正樹は、同時代に、ほぼ同じフィールドで活動した人であるということがわかる。
このデータをふまえ、池辺宣子氏から加藤正氏へ連絡を取ってもらった。宮崎県串間市出身の加藤正は、瑛九に誘われ、デモクラート美術家協会に参加するなど、瑛九の身近にいて活動した人である。池辺さんは加藤氏の姪で、加藤正を筆頭に宮崎県で2001年から2011年まで活動した「新芸術集団フラクタス」の事務局を勤めた実質的な牽引者。私も当初からフラクタスに参加し、
加藤氏の様々なお話を伺った縁がある。

上記タケミヤ画廊の1953年に個展を開催した加藤正は、一世代(10歳ほど)年上だった末松さんは、格好良くて、フランス帰りの知識人で、近寄りがたい憧れの人だった。今では、あの頃もっとお話しておけばよかったと思っている。瑛九は、末松さんのことをよく話していたよ、と語る。同時代に、同じ画廊で個展を開催したこと、加藤氏の語る内容などから、瑛九と末松の交流を窺い知ることができる。タケミヤ画廊は、戦後すぐに神田で画廊活動を開始し、滝口修造のプロデュースにより
若手の芸術家たちの発表の場として提供、多くの新進作家が結集した。
この加藤氏の談話により、瑛九と末松正樹を結ぶ線が連結した。第二次大戦中、フランスの激動の中にいて、同時代の画家・作家たちと交流し、戦後帰国してフランス文化の紹介・普及に尽力した末松正樹と、戦前から「フォトデッサン」を発表するなど前衛的な創作活動を展開し、
戦後、「デモクラート美術家協会」を設立するなど「前衛芸術」の旗手として時代をリードした瑛九。
その二人の関係の輪郭が、少し見えてきた。



 祈りの丘空想ギャラリー/2011夏の企画展
森の時間

―後藤洋明コレクション&空想の森美術館コレクションによる―
2011年7月1日ー8月31日
■東日本大震災復興支援チャリティーコンサート(入場無料)
・演奏 早川広志(リコーダーとバロックフルート)
・7月30日(土)午後6時頃より

・会場 ギャラリー前広場(雨天の場合はギャラリー内)
■書籍販売(会期中、図書ALL100円で販売します)
・売り上げは復興支援義援金として寄付
・有志からのご寄贈本と旧空想の森美術館の蔵書(珍品あり)




 梅雨が明けて南国の夏の太陽が降り注いでいます。石井記念友愛社広大な敷地の一角に建つ旧・教会を改装した「祈りの丘空想ギャラリー」では、近代美術史研究家・後藤洋明氏よりご寄贈いただいた絵画に、旧・由布院空想の森美術館所蔵の絵画を加え、「森の時間」と題した企画展を開催しています。これは、2010年に京都の古美術オークション会社「古裂会」が開催したカタログオークション「空想の森美術館コレクション」に出展されたものの中から、手元に残ったものと古い収蔵品を併せて展示するものです。後藤氏と空想の森美術館主・高見は若かりし頃、銀座の現代画廊に通い、画廊主の州之内徹氏の影響を受けながら美術修行をし、多くの作家たちと交流を重ねたのです。その縁と、手持ちのコレクション群とに、今回、古裂会主催の森川潤一氏が注目、2001年の空想の森美術館閉館以来、十年ぶりにその名を冠した企画が実現したのです。絵画や古陶磁、神像、仮面などを網羅したコレクションは、東京・丸ビルホールでも展示され、好事家の間ではちょっとした話題となりました。この展示は、その中の絵画を選抜したものです。なお、同会場では会期中、東日本大震災を支援する古書籍の即売会(一冊100円均一)が開催されており、7月30日の夕刻からはリコーダー奏者・早川広志さんによるチャリティーコンサートも開催されます。お仲間お誘い合わせの上、お立ち寄り下さい。









海辺の祈り 祈りの丘空想ギャラリーのコンサートから

じりじりと照りつけていた夏の太陽が、突然西の空からもくもくと膨張してきた黒雲に覆われ、
蝉時雨が止み、里山の木立も印象派の絵画を思わせる茶臼原の田畑も、
すべての事象が動きを止め、無音の状態が現出した次の瞬間、古い教会を改装した
小さなギャラリーが視界から消えるほどの雷雨が来た。
7月30日、「祈りの丘空想ギャラリー」で開催された東日本大震災支援
「早川広志バロックリコーダーコンサート」は、このような状況下で開始された。
折から、新潟・福島など、東北地方は豪雨に襲われ、氾濫した信濃川の模様がニュースで
次々と流れていた。復興に向けた歩みを続ける被災地を襲う相次ぐ苦難に人々は心を痛めていた。
早川さんは、この旧教会・祈りの丘空想ギャラリーの隣地に住み、各地で演奏活動を
続けておられる音楽家だが、この地域での活動も積極的に展開してきた。今回のコンサートでは、
近隣の子供たちなどが多く集まることを考慮し、エルガーの「愛の挨拶」やラフマニノフの「ヴォカリーズ」、滝廉太郎の「荒城の月変奏曲」等のなじみ深い曲を中心に構成されていたが、
終盤に、近藤浩平作曲「「海辺の祈り〜震災と原子炉の犠牲者への追悼 作品121」が組み込まれていた。この曲は「山の作曲家」としても知られる近藤氏が、3.11原発大震災の後、現在・未来の犠牲者への鎮魂曲として4月に書き上げたもので、チェロ、バスーン、ファゴットなどさまざまな楽器により各地で演奏され、呼んでいる曲である。無伴奏リコーダー版での演奏は初演ということになる。
古い友人でもある近藤氏に、早川さんは今回の企画と演奏について快諾を得ていた。
茶臼原の森を雨の幕に包んだ大夕立はまもなく止んで、西方の山脈を夕焼けが染めた。ヒグラシの声が響き始めたギャラリーに、「海辺の祈り」のメロディーが流れた。バロックリコーダーから紡ぎだされる重い低音と、沈黙の間を置いて流れる澄んだ高音。深い哀しみを秘めた音楽は、
カザルスの「鳥の歌」やポーランド楽派の作曲家で「広島の犠牲者に捧げる哀歌」を書
いたペンデレツキの作品を思わせる鎮魂の曲であった。過去に、大きな災害や戦争、人類の危機に直面する出来事などが起きたとき、それを記録・刻印し、同時代を生きる人々に大きな影響を与え、後世に残るすぐれた芸術作品が生まれた例が見られるが、この曲もそのひとつに数えられるであろう。
3月11日の大地震発生以来、大津波、原発事故と続いた大災害は世界中の人々に衝撃を与え、未曾有の災害に打ちひしがれることなく、冷静に対処し、懸命に立ち上がろうとする被災地の皆さんや、駆けつけた救援隊、医師団、支援者・ボランティアの行動などは、深い感動と勇気を与えた。被災地へ向けて贈られた物資や声援、そして音楽・演劇・芸能・詩・文学・アート
などの芸術表現・メッセージもまた、感動と共感の輪を広げていった。
大規模な支援だけでなく、個人や仲間など、小さな支援が大きな実を結ぶこと、
物質の援助だけではなく精神的支援が積み重ねられてゆくときにこそ、
本当に必要な生きるための連帯と勇気と元気が生まれるのだということを、
阪神・淡路大震災や雲仙・普賢岳の噴火、宮崎で相次いだ鳥インフルエンザ・
口蹄疫等の疫病の発生、霧島山系・新燃岳の噴火などによって学び、
進化してきたのだといえよう。
 この夜の観客は、夕立によって出足を止められたこともあって少なかった。けれども真摯な早川さんの演奏と鎮魂の祈りの曲「海辺の祈り」は静かな感動を生んだ。集まったのは主に近隣の家族連れだったが、掌にはそれぞれ「支援」の志が包まれていた。温かな心意に満ちた一夜であった。
この小さな志は確実に被災地の皆さんに届くと、私は確信したのである。






祈りの声を集めて 復興支援の小さな取り組み
祈りの丘空想ギャラリーの企画展から


3月11日の午後、私は高鍋町内のガソリンスタンドで、給油をしていた。その時、近くの町役場のサイレンが鳴り、続いて、津波注意報発令を知らせる緊急放送が聞こえた。町内での買い物を終えた後だったので、高台へと車を走らせ、広大な茶臼原台地の上にある自宅へ戻り、テレビのスイッチを入れると、そこには信じられない光景が映し出されていた。何十台もの車が押し流されてゆく光景。飛行場が見る間に水没し、飛行機も建物も波に呑み込まれてゆく。大きな川を波が逆流し、田も畑も道路も、そこを走っている車も、家も、あらゆるものが破壊され、流され、失われてゆく。それが、東日本大震災の第一報であった。
その後の、この未曾有の災害の詳細はここで繰り返すまでもない。が、世界中を驚かせ、感動させ、共感の輪を広げたのは、ほかならぬ被災地の皆さんの冷静さと沈着な行動と、懸命に立ち上がろうとする姿、そこに駆けつけた多くの人々の支援者たちの活動であった。私も、何度も映像を見ながら涙ぐんだ。それは同情ではなく共感と感動の涙であった。
現場に駆けつけられない多くの人々からも、支援の物資やメッセージが届けられ続けた。20年前の雲仙・普賢岳の噴火災害の折には50人を越えるアーティストと現地に向かい、復興を支援する企画を行なった経験をもつ私は、今回は現地に向かう余裕はなかったが、運営を任されている「祈りの丘空想ギャラリー」での超規模な企画展で支援のメッセージを発信することができた。その一つが様々な障がいを持つ人たちが制作した自然布や草木染め、写真とエッセイ、手書きの絵本とイラストなどを展示した「茶臼原自然芸術館作品展」であり、今回の早川さんのコンサート「海辺の祈り 震災と原子炉の犠牲者への追悼」であった。
この会場では、近代美術史研究科の後藤洋明氏より寄贈された絵画とともに古書が展示され、販売されて支援金として加えられた。私が湯布院からトラックに積みこんできた旧・空想の森美術館の蔵書や友人・仲間たちから贈られた本たちがまた次の人の手に渡って詠み継がれ、支援活動の一環を担ったのである。
現地に立つことの出来ないもどかしさは解消され、小さなことでも集積すれば必ず大きな力となって現場に届くと実感されて、新鮮な価値観として私たちの心を潤してくれた。これこそ、21世紀の日本人が獲得し、体現してみせた価値基準であった。





復興への祈り 被災地で奉納された高千穂神楽

東日本大震災の後、豊かな芸能文化の伝承地である東北・東日本の人々は、
いちはやく芸能・文化の再興にも立ち上がった。衣装や楽器、仮面まで地震で損傷し、
津波に流された多くの芸能が復興され、人々に勇気を与えたのである。
真夏の被災地に容赦なく照りつける7月17日と18日の二日間、高千穂神楽の一行が福島と岩手を訪問し、復興祈願の神楽を奉納したというニュースが、当地でも大きく掲載された。本来、神楽は、
「鎮魂」の性格を併せ持っており、今回の奉納は神楽の主意にかなうものである。
高千穂神社の後藤宮司の呼びかけに応じたのは、戦後、進駐軍の占領下にあっても
神楽の灯を守り続けたという三田井地区神楽保存会の皆さんである。記事によれば、
『一行は17日に東京電力福島第一原発事故に伴う避難者が多い福島県郡山市の開成山大神宮で
神楽6番を奉納。18日は岩手県釜石市の尾崎神社と大槌町の小槌神社を訪れた。
避難所にもなっている尾崎神社では、復興祈願祭の後、神楽「杉登(すぎのぼり)」を奉納。
杉登は、高千穂の地主神が護神木である杉を伝って降臨する場面で、勇壮な仮面舞である。
同神社の佐々木裕基宮司は、「どん底の釜石が昔を取り戻せるように神様の力をもらった」感激。
小槌神社はやや高台に位置するが、神社前に広がっていた住宅街は本震の発生後、津波と大規模な火災でほとんどが消失。境内には、そうした苦難にさらされ、現在も避難所や仮設住宅での生活を強いられている市民ら約300人が集まった。神楽は、約一時間半にわたり、高千穂神楽の代表的演目である「岩戸開き」の「手力雄」や海神の霊力を讃え、海の安全を祈願する「住吉」など計5番を奉納した。
高千穂神楽を見た釜石市の金崎千鶴子さんは「本当に感動した。震災に負けないで、復旧・復興に取り組んでいきたい」と話し、津波で被災し神楽の巻い手ら氏子約170人が犠牲となり、
神楽道具も失われた岩手県山田町荒神社の西舘勲宮司は、「歴史を感じる荘厳で
素晴らしい舞を奉納していただいた」と感無量の面持ち。
三田井地区神楽保存会の俵勲会長は、「テレビや新聞で見るよりも悲惨な光景が広がり、
言葉もない。地元の方々は真剣に舞を見てくれた。心の安らぎと復興への意欲に
つながれば」と話し、後藤宮司は「人々が立ち直ろうとするときは心のよりどころが必要。
東北地方で盛んな神楽がそうした力になって欲しい」と語った』
現地の様子が目に浮かぶドキュメントであった。

*『』内は7月19日付け宮崎日日新聞、西日本新聞の記事を参照。写真は同日宮崎日日新聞掲載分


神楽と仮面

仮面詩集 月下の仮面祭

2010年7月22日−9月30日



月が出た。
黒々とした山塊の
奥深く抱かれた村の
神社では、年に一度の
神楽が開催されていた。
その御神屋が設えられた境内の
斜め上方の
黒い山嶺を光らせて
ぽっかりと銀色の月が
浮かんだのである。

女が一人
神庭から踊り出て
月に向かって手を広げ、
その手をひらひらと宙に漂わせながら
神社の裏山へと続く
細道に消えた。
神楽の囃子に浮かれたのか
幻月に誘われたのか
男の呼ぶ声が
遠い
山の闇から聞こえたのかは
定かでない。

―今宵ひと夜はお許しなされ
   ひとのかかでも娘でも

鹿、猪、狐、
鬼、水神、山姥、黒い翁
月の光に照らされた
村に
神楽の音楽が流れ、
過激なセリ歌が歌われ
不思議な面相の
仮面神が次々と登場し、
幽玄の舞を舞う。
ピッ、ヒョォォォ・・・・・
神楽の笛に
雄鹿が雌鹿を呼ぶ声が混じる。


女が
一夜だけ
行方知れずとなるのは、
こんな晩だ。

 

祈りの丘空想ギャラリーは口蹄疫発生の中心地域に位置していたため、
拡散防止に協力するため、7月20日まで休廊としていましたが、夏休み
を迎える7月22日から再開します。 展示は、中断していた高見乾司の
宮崎日日新聞連載記事による「神楽と仮面」に新作の「仮面詩集」を加え
たものです。会期中さらに新作を加え展示替えを行いながら進行します。


森の空想ミュージアムコレクションによる
 
素描の愉しみ
  
◇2009 9月5日−10月30日

平野遼「荷を運ぶ」鉛筆・淡彩
 所蔵品を整理していたら、いろいろな作家の素描(デッサン)が出てきた。それで、
「この夏はデッサンだけを展示する企画としてみよう」と思いついた。展示しながら、
1982年(あるいは1984年だったかもしれない)に、信濃デッサン館を訪ねた日のことを鮮明に思い出した。
そのころ銀座にあった現代画廊で、「佐藤渓展」の開催を手伝い、その折に、画廊主の州之内徹(1913−1987)氏から、
「美術館の設立を計画しているのだったら、信濃デッサン館を見て、窪島君にも会っておくといいよ」
とアドバイスされたからであった。その頃私は、「由布院空想の森美術館」(1986−2001)
の設立準備を進めており、現代画廊での佐藤渓展で買い取って十数点のデッサンと放浪中の水彩画なども、
主要な展示品のひとつであった。放浪の詩人画家・佐藤渓は、湯布院で亡くなり、その縁者や知人が湯布院にいたことから、
作品の散逸を惜しみ、州之内氏や遺族と話し合い、私が買い取って湯布院に持ち帰るということで、
合意が成立していたのであった。佐藤渓と湯布院のことなどについては州之内氏の著書「気まぐれ美術館」
シリーズの「さらば気まぐれ美術館」に「モダンジャズと犬」というタイトルで収録されているので
ここでは説明を省くが、いくつかの縁が重なり、私は信州・上田の町はずれに建つ信濃デッサン館を訪ねたのである。
 前日、バスで上田市の郊外にある別所温泉へ行き、そこで泊まった。宿の露天風呂に入ると、
目の前に葉の落ち尽くした雑木林があり、その林の上に大きな銀色月が出ていた。
翌日、歩いてデッサン館に向かったが、道を間違えて広い田んぼの中のあぜ道を歩く破目になった。
冷たい風が真正面から吹いてきて、歩いても歩いても前に進むことがで出来ず、困難を極めた末に
やっとデッサン館にたどり着いたのであった。そこで開催されたいたのは、「立原道造展」であった。
その美しい叙情世界にも心を洗われれたが、静けさに満ちたデッサン館のたたずまいと
「デッサンだけで美術館が成立している」という事実には感動し、敬服した。信濃デッサン館こそ、
私の「空想の森美術館」や、その後全国に出現した多くの個人美術館に絶大な影響を与えた画期的な美術館であった。
大きな建物や西洋の名画、権威ある大作家の作品でなくても、個人の見識・眼力と心からなるコレクション
によって美術館が成立しうる、という概念を確立してくれたのがこの信濃デッサン館であった。
 その日、窪島氏とは館内ですれ違っただけで言葉を交わす機会はなく、窪島氏との面談を果たすまでには
十年以上の年月が経過したが、私は十分満足していた。信濃デッサン館とそこに展示された作品群から
発信されるメッセージを、私は、あの日、しっかりと受け止めることができたと思っているのである。
以後、窪島氏の仕事は、戦没画学生の遺作を集めた「無言館」等へと発展し、
日本のアートシーンに強いメッセージを放ち続けていることは周知のとおりである。
 さて、当「祈りの丘空想ギャラリー」での「素描(デッサン)の愉しみ」には、平野遼「荷を運ぶ」、
水村喜一郎「水門のある風景」、木内克「横たわる裸婦」、四谷十男「抱擁」などを展示。いずれも、
旧・由布院空想の森美術館で展示したものである。個別の作品に対するコメントはまた別の機会に。(高見)

 展示から

教会のある風景

[市村修 スペインの白い教会(油彩F6号)]

 市村修氏は、岩手県出身の画家で、たびたびスペインを訪れて、長期間滞在し、
絵を描き続けた画家だが、数年前にお亡くなりになったらしい。
カビレイラ村という白と青を基調とした村では、なかり長い期間その村に
住み続けながら描いていたという。
 氏の絵にほれ込んだ現地のコレクターや、通りがかりに出会った日本人の
旅行者との交流などが断片的に記録されているが、今のところ、市村氏に関する情報は乏しい。
ただ、市村氏の絵が、宮崎の地の、遠くに米良の山脈を望む古い教会を改装した
「祈りの丘空想ギャラー」に違和感なく収まっているのはうれしいことでである。
 この絵は、コレクター・近代美術史研究家の後藤洋明氏からご寄贈いただいたものである。
後藤氏とは、昔、銀座にあった「現代画廊」で知り合った。私(高見)も後藤さんも、
画廊主の洲之内徹氏の美術エッセイ「気まぐれ美術館」の愛読者で、
洲之内氏のもとに集まり、美術談義を交わした「気まぐれ党」ともいうべき一員なのある。
後に、私が「旧・由布院空想の森美術館」を設立・運営していた時期、
「画中遊泳法」というエッセイを美術館の月報に連載してくださった縁により、
この絵が私の手元に来ることになったのである。2001年に同美術館が閉館になり、
湯布院を離れることになった手放さずに宮崎へと持って移動し、折に触れ、
取り出して眺めたり、展示の中心に据えたりしている大切な作品のひとつでもあるのだ。
 今回、市村氏の経歴を調べてみて、インターネット情報にはあまり詳しくは
載っていなかったので、久しぶりに後藤氏に電話をしてみたら、彼は新幹線で
「林倭衛(はやししずえ)」の遺作展準備のためどこかへ向かっている途中
だということだったが、「帰ったら、市村さんの資料を送るよ」と言ってくれた。
ますます元気な彼のことが嬉しく、資料の届くのが楽しみな日々である。


[宮迫千鶴「日曜日の畑」(F6号・パステル) ]



 宮迫千鶴氏は、広島県呉市出身。1984年エッセイ集『超少女へ』で注目され、上野千鶴子との対談を刊行、絵のほかに多くの女性論などのエッセイを刊行し、女性論をリードした。
 オカルト、スピリチュアルへの関心が一貫し、自然と人間の関わりについても考察を続けたが、2008年6月19日、リンパ腫のため死去。惜しまれて天上世界へと旅立った。
 夫は画家で美術評論家の谷川晃一氏。東京から伊豆高原に転居し、谷川氏とともに「伊豆高原アートフェスティバル」を開催、「中央から地方へ」と移行するアートシーンのさきがけ的企画を展開した。
 伊豆高原のアトリエでは、パステルやコラージュを多用した日常風景・心象風景を描き、多くのファンを獲得した。この「日曜日の畑」も宮迫さんの穏やかで暖かな心象がよく描きだされている。そして、「祈りの丘空想ギャラリー」の西方に広がる茶臼原の農地、さらにその向こうに霞む米良山脈・九州脊梁山地の山並みの夕焼けなどもまた、この絵と響き合っているかにみえる。


手のある壁面


 祈りの丘空想ギャラリーの正面の壁面に、一点の「陶」の作品が展示されている。
 不規則な円盤に、かすかな文様が刻まれ、その円盤の両端から手が差し出された作品である。
その手の上部には、小さな十字架。そして十字架の真上には、八角形の窓があり、
その窓には細い裂け目のような明り取りがあって、午後には西陽が、
夕刻には夕焼け色の光が射し込んでくる。
 このギャラリー空間は、かつて石井十次とその仲間たちが祈りを捧げた教会で、
20年ぐらい使われていなかったものを改装して使用しているのである。
その改装の時、友愛社の児嶋草二郎理事長(石井十次の曾孫)がこの室内空間を
「子宮」に見立て、窓や壁面などに様々な工夫をこらした。
東側(正面)の入り口からは朝日が差し込み、女性器の形状をしている
西側の窓からは夕日が入る。南北の壁には、生誕から臨終までの人間の
一生を表すタペストリーがはめ込まれている。これにより、室内空間そのものが
母の胎内空間となり、やわらかく、暖かく来場者を包みこむのである。
 一条の光線は、ギャラリーの床に時間の経過を描いてゆき、静かに夜を迎える。
 「手」の作者はスロバキアのアーティストヤロスラヴァ・シッコ氏。
2008年夏から秋へかけて日向国際彫刻展の招待作家として宮崎を訪れ、
その縁で友愛社・茶臼原に滞在し、制作を行った。また、近所の子どもたちや
のゆり保育園の園児たちを招いて、ワークショップやアートセラピーなども行った。
そしてこの作品を当ギャラリーあてにご寄贈くださったのである。これもまた、
この空間にふさわしい作品のひとつとなり、今日も静かに来場者と対話しているのである。



熊田みどり展
 
 ピクニック
  
 ◇2009 5月16日−5月24日
   
 
熊田みどりさんは、この茶臼原の森に、時々、ふらりと現れる。どうやら、広大な古墳地帯に吹く風や、静かにたたずむ古い教会を改装したギャラリー、百年も前から福祉に取り組んできた「石井記念友愛社」の歴史とそれを支える人々、日本の近代美術史に大きな影響を与えた児島虎次郎の足跡、「九州民俗仮面美術館」に展示された古い仮面たち、それらを包むゆったりとした時間の流れなどが、お気に入りのようだ。今思い出したが、彼女は、この仮面美術館の開館時、内壁の漆喰塗りを手伝ってくれたこともある。そのころは、西都原の考古博物館で修復のアルバイトをしていると言っていた。先日、福岡のギャラリーで自作のオブジェを展示した個展を開いたといい、そのDMを持って現れたが、それは、この森の一角にある20年以上も前に使われなくなったプールに、自作のオブジェ(それは陶製の大きな足)を置き、撮影したものだった。その一枚のDM にも、不思議な時間が流れていた。今回の企画では、それらの「足」のオブジェに新作を加え、タイトルも「ピクニック」としてある。彼女とその仲間たちにかかれば、ピクニックも不思議なアート作品となるのだ。

アート、とくに現代美術と呼ばれる領域に関して、「不思議」という言葉を使ってはいけない。アートにかぎらず、「現代」と呼ばれる21世紀初頭の日本、そして地球上には「不思議なこと」が満ち溢れているではないか。たとえば、このくまだみどりさんの個展が始まった2009年5月15日には、日本国内では初めての新型インフルエンザの感染が確認されたし、政権交代を標榜する野党の党首選挙では「友愛」という政治理念を掲げる候補者が選出された。現代における政治家と友愛の精神こそ、相反する事例の最たるものだと思われるが、唐突に提出されたその言葉は、不思議なことにこの鳩山さんという人によって復権しそうな気配なのだ。あらためて「愛」を語らねば生き延びられないほど、「ヒト=人類」はこの地球上での生存が危うくなっているということの証しであるともいえよう。次々と変異を繰り返しながらヒトを襲うウィルスとは、「自然界=地球」の人類への逆襲のメッセージであることは疑いない。そういえば、「祈りの丘空想ギャラリー」は、かつて石井十次とその仲間たちが、この茶臼原大地に福祉と農業と芸術の理想郷づくりを開始し、祈りを捧げた古い教会を改装したスペースであり、十次の理念を受け継ぐ「友愛社」の敷地の中にあるのだ。百年前に「友愛」を掲げ、この地を開拓した人たちの痕跡を残すこの場所で、このような展覧会が開催されているのもまた、時代の不思議のひとつといえるだろうか。
  


本題に戻ろう。このギャラリーの前には広場があって、そこにも熊田さんのオブジェが展示されている。
そして、その広場のそこここで、弁当を広げたり、日傘をさして歩き回ったり、談笑したりしている人たちがいる。これが、くまださんのいう「ピクニック」であり、現代のアート鑑賞のプログラムなのだ。この日は入り口付近で、着物姿のくまださんが迎えてくれた。下半身だけを露出したマネキンの前で金縛りになっているオジサン鑑賞者に対して、「スカートをめくってもいいのですよ」と、みずからその裾を持ち上げて見せてくれる。恐る恐る視線をすべらせると、原色の下着にコラージュされたのは、くまださんが宮崎市の商店街を歩くスナップであり、若い女性の溌溂とした姿態である。ここで「ウィルスに対する女性の生命力」などという理屈を提議するのは、野暮というものである。この場面は、彼女の遊び心にさりげなく感応するのが、おしゃれな鑑賞法であろう。
  
さて。
くまださんの本領といえば、マネキンに施されたコラージュ系の仕事ではなくて、「陶のオブジェ」なのだ。その「陶」の作品は芝生の上にも展示されているが、ギャラリーに入ると、床一面に並べられた「足」に驚かされる。夥しい数の「足」に圧倒されるが、それらのオブジェが、笛や太鼓などに転用される「楽器」の性格を併せ持っていること、椅子の機能や、草花や小さな植物を植え込む鉢、さらに湯が沸き立っている鉄瓶が掛けられた火鉢としての利用法、腹部にテレビを抱え込んだ下半身坐像などを見ると、思わず微笑まずにはいられない。用途や機能の枠を逸脱したこれらの性格こそ、この作品群に込められたメッセージであり、かつて発掘された鉄器の修復にも取り組み、現在はリサイクルショップで働きながら表現活動を続けているという彼女が、「土」という素材と格闘しながら、自身の方向性や時代性などを模索する表現行為の「途上=今」であろう。
      
ここで、くまだみどりさんの経歴に触れておく。彼女は、宮崎市高岡町生まれの26才。宮崎工業高校から九州造形短大クラフトデザイン科(福岡県)に進み、陶芸を専攻。学生時代は動植物や足などをデザインした陶製のオブジェを作っていたが、同大研究過終了記念の個展開催中に、福岡県西方沖地震(2004年3月)に遭遇、作品の大半が損傷した。本人曰く「失意のどん底」の状態で高岡の実家に戻り、以後アルバイトをしながら電気窯を購入、制作を再開。昨年(2008年9月)には福岡市の画廊・ヴァルトアートスタジオで個展、同11月には佐賀市の佐賀新聞ギャラリーで二人展を開催した。目下の興味は、高鍋町持田古墳群の上に立つ石彫群「高鍋大師」。その素朴だけれども圧倒的なエネルギーに「不思議な磁力を感じる」という。若さと好奇心と鋭い感受性を併せ持った造形作家である。今後の活動の展開に注目しておこう。
                        
        

[ノートから]
古い教会を改装した「祈りの丘空想ギャラリー」には小さな雑記帳が置いてあります。
          訪れた人が感想やメッセージを寄せて下さり、企画者やこのギャラリーをたびだび訪
          れる人などとの交流がうまれています。
□「黒の余韻」展にて
・黒色だけでかいた絵も「うすいところ、こゆいところ」などあって、げいじゅつです。(近所の小学生の感想)
・どうしてがくぶちより絵のほうが小さいのかが、ふしぎです。でもどの絵も上手です。(近所の小学生)
・それはね、「白の空間・黒の空間」(せんもん的には、間<ま>とか余白<よはく>などといいます)を大事にしたいと考えたからです。昔から日本には、広いびょうぶ(屏風)に小さい絵を張る、という表現様式があります。空間のとのかたもまた芸術表
現なのです。(企画者からの回答)
・こういう空間、大好きです。今、雨がふっています。椅子に座ると見える芝生と彫刻、最高!(岡山県倉敷市から来た人)
・愛犬を連れて何度も何度も訪れた場所です。愛犬は、2年間、肝臓ガンと闘い、そして先日死にました。ようやくこの場所を訪れる気になりました。とても心安らぐ場所です。 黒と白の絵・・・和的であり、洋でもあり・・・そして色が見える。心静かに見つめていられる絵ですね。ありがとう。(宮崎市より、二人連れ)




森の空想ミュージアムコレクションによる
「黒の余韻」展
◇2008 9月1日−10月10日



中国雲南省の古都・大理に立ち寄った時、古い町並みの路地の奥の骨董屋の二階で、ボロボロの掛け軸を買った。その五本の掛け軸を丸めてリュックサックに入れ、背負って旅を続けたが、旅から帰ったら、そのまま忘れていた。その風化寸前の掛け軸から、気に入った部分だけをトリミングして、黒いマットの額縁に入れてみた。すると、余分なものが排除され、「黒」で囲われた分、旅の印象が鮮明に浮かび上がってきたように思えた。中国奥地の民衆が伝えてきた、道教の民画が、日本の神楽伝承の地・宮崎まで旅を続け、展示されたのである。
            

      「夜の橋」(コンテ)武石憲太郎
けていた彼の姿が、黒の余韻となってよみがえるのである。
 
    「しぐれる町」(墨)高見乾司
上記の武石さんと並んで描いた作品。湯布院の古い温泉場湯平で開催された漂泊の俳人種田山頭火にちなんだ美術展で。山頭火はこの町の人情にふれ、「しぐるるや人の情けに涙ぐむ」という句を残した。木賃宿に投宿した山頭火は、川原で旅の衣を洗濯し、読書をしていたところ、折から、「しぐれ」がきた。慌てて川原に走ると、洗濯物は、宿の娘がすでに取り込んでくれていた、というエピソード。ちなみに、この町へ来る途中では「ほいとうと呼ばれる村のしぐれかな」という句を作るほど、放浪の旅人や物乞いには冷淡な視線を浴びせた当時のこと。山頭火に宿の娘の心遣いが心にしみたのである。湯平には、この美術展を契機に「時雨館」という空家を改装した三坪ほどの美術館が開館した。山頭火が訪れた初冬の町を、しぐれが通りすぎてゆく。

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(SINCE.1999.5.20)