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小鹿田焼ミュージアム溪聲館



 小鹿田焼ミュージアム 溪聲館


九州北部にそびえる霊峰英彦山の東麓、日田・小鹿田焼の里に隣接する「ことといの里」に
[小鹿田焼ミュージアム溪聲館]が開館。江戸~明治期の古作300点を収蔵・展示する研究・交流施設です。




[豊後の民陶・小鹿田焼の郷愁]

小鹿田焼は、昭和二年、民藝運動家・柳宗悦によって見いだされた。
旅の途上、立ち寄った一軒の陶器屋に並んでいた雑器がそれであった。柳宗悦は、その美を、唐宗の焼物に匹敵し得ると評価、四年後、自ら小鹿田の土地を踏んだのである。そして昭和二十六年、英国の陶芸家・バーナードリーチ氏を伴った柳氏の再訪によって小鹿田の評価はゆるぎないものとなる。リーチ氏は、小鹿田に滞在し、その技法を学び、また自身の美学を教授した。
小鹿田の歴史は、三百年余。高取焼の系譜を引く小石原の分窯である。したがって、日本の陶芸史の中では後期の創窯にあたるが、諸方の窯が次々に近代化され、変貌を繰り返したのに比し、この窯は、世襲制の原則を貫き、伝統手法を守り続けてきた。日田市の山奥に位置するという地理的環境、主として農村地帯の日常雑器を作り続けてきたという歴史などによって、日本の陶芸の古法が守り伝えられてきたのである。
トビカンナ、刷毛目、打ち掛けなどの技法は、李朝陶芸の手法を彷彿とさせ、飴釉や黒釉などには、柳氏が指摘したように古代中国の陶器に比肩し得る作がある。また、茶壺、大甕、大型の口付き徳利・雲助などには、庶民の日常生活から生み出された自由闊達なデザインがあり、味わい深い。
これらの実績により、小鹿田焼は平成七年、「国指定重要無形民俗文化財」に指定され、平成八年には「日本の音百選」にも選出された。唐臼がのどかに土を挽く音を立てる小鹿田の里は、文字通り、集落全体が生きた文化財であり、後世に残し伝えられるべき歴史遺産なのである。

☆☆☆

上記写真は「由布院空想の森美術館」(1986-2001)で1998年に開催した「小鹿田古陶展」のポスターに使用したもの。同館の中庭で撮影した。折から山桜・楓・ヤマボウシなどの紅葉が散り敷き、民陶・小鹿田焼にふさわしい背景となった。文章も同展のものに加筆。「小鹿田古陶展」は1989年にも開催。この時のコレクションをもとにその後収集を加えた200点が、同館閉館後も当時のスタッフたちによって大切に所蔵され、
「小鹿田焼ミュージアム溪聲館」の開設へと結びついたのである。




 小鹿田焼ミュージアム溪聲館の展示は、上記経緯による旧・由布院空想の森美術館コレクション
(現在の所有者・高見俊之)とギャラリー渓声館コレクション(同・梅原勝巳)、日田市在住の
コレクター(匿名)の寄託品により、構成されます。散逸を惜しみ、約30年にわたり、小鹿田焼を
郷土の文化遺産と位置付けて収集・研究を続けてきた仲間たちの活動が、
ここ「ことといの里」で結実の時を迎えたのです。



16世紀に朝鮮陶工の渡来によって幕を開けた唐津・上野・高取・小石原等の九州陶芸の流れが18世紀に小鹿田の里へも伝わり、刷毛目、飛び鉋、打ち掛け、流し掛け、指描きなどの伝統技法を伝えてきました。


小鹿田焼は甕・壺・鉢・皿など、日常の生活用具を作り続けてきたことで知られますが、一方で、
数寄者や文人の求めに応じて茶道具、花器、牛・狸・猫・田の神などの彫刻・置物など、
遊び心に富んだ作品も作りだしています。

 

小鹿田焼は、村の背後にある山から陶土を掘り出し、「からうす」と呼ばれる水力を利用した臼で
長い時間をかけて搗き、轆轤を回して成型され、登り窯で焼きあげられます。そののどかで
穏やかな風景は国の「重要文化的景観」「日本の音百選」にも選定されています。




[小鹿田焼ミュージアム溪聲館から<1>]
まずは開館のお知らせです。


・西日本新聞記事


・こんなところ。深い森に抱かれて。


・看板。



「小鹿田焼」の概略
・大分県日田市の山中深く伝えられてきた「小鹿田焼」は江戸時代中期に、筑前の国小石原焼から陶工・柳瀬三右衛門を招き、大鶴村の黒木十兵衛によって開窯された李朝系登り窯。300有余年にわたり当時の技法を受け継ぎ、窯の火を守ってきた。代表的な技法として飛びかんな・刷毛目・櫛描き・打ち掛け・流しなどがある。

昭和6年に民芸運動の指導者・柳宗悦氏の来山により、その伝統技法と質朴な昨調が賞揚され、昭和29年・39年には英国の陶芸家バーナード・リーチ氏が滞在し、作陶し、世に知られた。



平成7年、国の重要無形文化財保持団体の指定を受け、いまも集落の谷川でのんびりと陶土をつき続ける唐臼のように、永い歴史と伝統を守りながら小鹿田焼10軒の窯元がじっくりと手仕事に取り組んでいる。


展示室風景 [小鹿田焼ミュージアム溪聲館から<2>]


・毎日新聞記事。
文中に高見乾司が梅原勝巳の叔父とあるのは誤り。正しくは高見俊之の叔父です。コレクションの総数300点のうち、高見俊之所蔵が200点、梅原勝巳所蔵が100点、総数300点が正しい数値。さらに昨日、旧知のコレクターから古小鹿田(江戸期の作)逸品20点の寄託があり、さらに充実したものとなりました。







展示風景

れんげ田の里で

[小鹿田焼ミュージアム溪聲館から<3>]




「小鹿田焼ミュージアム」でのプレオープン企画を無事に終えて、宮崎へ戻ってきました。
熊本・阿蘇・大分地震の影響で地面が揺れ続ける中での開館でしたが、事故もなく、
多くの仲間・友人・知人が訪れてくれ、感慨ひとしおの10日間でした。
最終日、小ぶりの白い壺を持ち出して、れんげ草の咲く田んぼで写真を1枚。
小鹿田焼の里を最上流部にもつこの小野谷では、地区の有志が、れんげ田を守り続けています。
懐かしい風景の中で、昔、梅干壺として使われた白土の壺が輝いて見えました。
1宮崎を出発して大分・日田[小鹿田焼ミュージアム溪聲館」へ。そしてプレオープン期間のまでの4日間、
インターネット通信のできないエリアにいました。留守中のブログに、沢山の訪問者があり、驚き、また感謝。
以下は、快適に過ごした「小鹿田焼ミュージアム溪聲館」4日間の断章。



渓流の音と小鳥の声で目が覚める。朝食を済ませ、木立の下でコーヒーを一杯。



コーヒーカップは、昭和~平成へかけて小鹿田焼を牽引した名工・坂本茂木の作。茂木氏は、現在は、息子・孫に轆轤を譲り、隠居しているが、そのデザインが二人に引き継がれ、製作が続けられていることが嬉しい。小ぶりのカップは、使い勝手が良いし、使い込むほどにコーヒーの成分が器肌に浸透し、雅味が深まってゆく。



館の前の広場には欅・楓などが枝を広げている。植え込まれてすでに20年が経過し、
大木となって周囲の山々と同化して、この一帯が深い森となった。木の間から
降り注いでくる朝日を浴びて、深呼吸する。
至福のひととき


渓流沿いの道

[小鹿田焼ミュージアム溪聲館から<5>]




「小鹿田焼ミュージアム溪聲館」のやや上手に小さな祠があり、地蔵様が祀られている。
水と花が供えられている。地元の人が、古くから信仰してきたものが、この地域の再開発の折に
この場所に安置されたのだろう。祠の背後に立つ藪椿の大木は、四月の末まで真っ赤な花を散らしていた。



地蔵様の祠のすぐ横を小野川の清流が流れ下っている。北部九州修験道の霊地として
栄えた英彦山を源流とする川の水は清冽である。




深い淵があり、急流がある。
先日、ヤマメの大物を逃したのはここだ。大岩の陰に隠れて淵の上流から振り込んだ途端、
強いアタリがあり、ぐいと糸が引き込まれた。そしてその糸は、急流に乗って下流へと走った。
弓なりに撓む竿。その竿を引き絞り、岩を飛び移る。獲物はその速度を保ったまま、
糸を大岩の根に引き込もうとする。それを阻止しようと竿に力をこめた瞬間、
ぴしり、とばらけて、糸はむなしく空を泳いだのである。



森の奥からオオルリの囀りが響いてくる。目の前を、灰白の縞模様を光らせてヤマセミが飛んだ。

 



五月の山旅
[小鹿田焼ミュージアム溪聲館から<6>]

 530日、快晴。
 宮崎から高千穂・阿蘇を経て、日田「小鹿田焼ミュージアム」へ向かう。
4時間半~5時間の行程である。

参考のため、ルートを記しておく。このルートは、今回の熊本・阿蘇・大分地震の影響が少なく、
通常とほぼ変わりなく通行できる。
宮崎方面からなら、東九州道宮崎インターから北上。西都・高鍋方面からならば、都農インターが便利。延岡分岐で高千穂方面へ。北方・蔵田出口で一般道へ合流。日之影・高千穂の市街を横目に見ながら通過する。それから先はほとんど山道である。高森の手前で東へそれて、波野で国道57線にぶつかる。東へ右折すれば竹田。西方は阿蘇。ここを突っ切り、産山を経由して南小国へ。途中に満願寺温泉郷がある。小国からは天ケ瀬・五馬高原を走り抜ける。これが日田・小国・竹田を結ぶ旧街道である。この地域から、小鹿田焼の古作が収集されることがある。古い形式の珍品もみられる。竹田以南への分布はみられない。岡城を擁し、田能村竹田を頂点とする豊後文人を生み、各地から文人墨客が訪れた竹田という土地柄と、天領として栄え、門弟7000人を数えた私塾・咸宜園を有した日田の民陶・小鹿田焼の流通経路を重複させて考証することは、
歴史の古道を行くがごとき悠遠の旅である。道は、旅人が歩き、商人が牛の背に荷を積み、
野を越え、山を越えて運んだ文物交流の道であった。


草原の向こうに、噴煙を上げる阿蘇山を望み、雄大な外輪山を走って小さな集落が点在する
渓谷沿いの道を通過する。途中で薬草を採集したり、温泉に入ったりしながら、はるばると山路を越えてゆく。
「山旅」とは、登山者が、険しい山岳を登走し、山に寝てまた次の山を目指す旅のことをいうが、旧式のワゴン車を飛ばしてゆく私の旅も現代の山旅に加えてもらっていいかと思う。黒づくめのトヨタカローラ・プロボックスという車種は、ビジネスマンや商店の販売員などが荷物運搬に使うために設計されたものだから、見かけは無骨だが、頑丈で、走りは軽快だ。咲き始めたヤマボウシの花を一枝、運転席の横に置いたジュース
の空き缶に挿し、風になびく花びらを愛でながら走破する。
道中は、標高500メートル前後の高原地帯だから、若葉に分厚く覆われた照葉樹林帯と、明るい新緑が輝く広葉樹の森とが交互に車窓を行き過ぎる。険しい山岳の間を走ることもあるし、草原地帯を、
風を切って走り抜ける行路もある。


欅の大樹が涼しい陰を作る森で一休みして、小道を歩く。道の脇に野苺と木苺を見つけた。野苺は少し時期が過ぎていたが、甘い。ほのかに太陽のぬくもりと草藪の香りをまとっている。甘酸っぱい木苺は真っ盛り。手のひらいっぱいに採り、少年の日のように勢いよく口に放り込む。花筏と茜の群生も見つけた。花筏は、葉っぱの真ん中に小さな青い点を置いている。それが白い小さな花になり、実になる。この葉が水に浮かぶときを想定して、古人は花の筏という風雅な名を呈した。茜は、夏にその赤い根を採集し、染色に用いる。布地が真夏の夕焼けの色に染まる。蕗はキャラブキに煮付けよう。タケノコは明日の味噌汁の具材だな。さらに、スギナ、
スイカズラ、アカメガシワの葉、クマザサなど、野草茶の素材も採集。西の山が淡い茜色に染まった。


さて、旅路を急ごう。
今日から10日ほど、「小鹿田焼ミュージアム」に泊まり込んで、展示の仕上げや周辺
の森の整備などをする。館のすぐ横を流れる谷川に、蛍が飛び始めたという。





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(SINCE.1999.5.20)