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aaaaaaaaaaa晋州仮面劇(タルチュム)フェスティバル取材紀



このページは、西日本新聞宮崎県版に新聞に2010年10月13日から12月14日まで連載された「韓国仮面劇を訪ねて」に一部加筆したものです。韓国の仮面劇と日本の仮面劇、を通じて、アジアの仮面文化の源流を探る旅への旅立ちです。

                  韓国・仮面劇を訪ねる旅

              <15>不屈の民族・友情の夜 (最終回)

                  

                 

 三十数年ぶりに、書棚から「金芝河(キムジハ)詩集」を取り出し、埃を払ってページをめくってみた。1970年代、当時の韓国の軍事政権下で、権力や財界を痛烈に風刺した詩を発表し、たび重なる逮捕と投獄、1974年の死刑判決など、苦難の道を歩みながらも、世界の文化人の救命活動によって1980年に刑執行停止となって釈放されたこの詩人が、韓国の仮面劇の復興にも大きな影響を与えたことを知ったからである。

再読してみると、なるほど、「五族」「蜚語」は、タルチュム(仮面劇)の両班批判にその原型がみられるし、「黄土の道」は、哀歓と叙情性、飄逸などを混在させながら、痛烈な批判精神に貫かれた「マルトゥギ」の言葉そのものであった。それが、李朝時代であれば、差別された底辺の民の芸能として黙認されたのだが、同時代の詩人から発せられた言葉であれば、支配者にとっては、排除しなければならない反乱因子であった。

だが、日本軍の支配から解放された後の韓国民衆にとって、さらなる軍事政権による圧制は到底受容することのできない過ちの歴史の繰り返しであり、金芝河の言葉は民衆の声を代弁する真実の叫びであった。その真実に裏打ちされた言葉の芸術性の高さが世界中の文化人の心に響いたのである。

釈放後の金芝河の発言と行動に曲折はあったが、仮面劇の復興に果たした役割は大きい。三十六年にも及ぶ日本軍の植民地支配のもとで「断種」の危機に瀕していた仮面劇「タルチゥム」や巫堂劇「クッ」をはじめとする芸能文化が復活し、伝統をふまえた新しい芸術文化として花開いたのである。

さて、「晋州仮面劇フェスティバル」も最終日の夜となった。フィナーレは、参加者全員による群舞である。広場を囲んだ参加者が、赤と青の組に分かれ、それぞれが長い竹竿に取り付けられた赤と青の旗を手に持たされ、広場の横の空き地へと行進してゆく。ステージや広場の舞台などはすでに片付けが始まっている。空き地はたちまち旗で埋め尽くされ、その旗の波を縫って、打鼓(チャング)、鉦、笛などを吹き鳴らした楽隊が賑やかに行進する。人と旗の波は、さながら大蛇のように、あるいは軍旗の列のように、また大河の流れのようにうねり、流れながら渦を巻いて巨大な円陣を形成する。その円陣の真ん中をめがけて、赤・青の張子の牛が突入してくる。牛の背には若者が乗っており、日本の騎馬戦のような闘争を繰り広げる。牛を引く者、牛の後を追う者、その周りで踊る者。すべての参加者と観客が、こうして一体となった群舞を形成してゆくのである。

諸塚・南川神楽の皆さんも、皆、笑顔で旗を振り、行進している。少し疲れて、会場の端のベンチに座り込んでいたら、一人の若者が祭りの渦の中から飛び出してきて、「さあ、一緒に踊りましょう」と私の手を取り、輪の中へ導き入れてくれた。仮面劇フェスティバルの裏方として、会期中、黙々と舞台の裏で働き続けていた青年であった。その踊りの輪の中には、私が何度もカメラを向けた韓国美女もいて、大きく手を広げて迎えてくれた。踊りは、沖縄の手踊り、鹿児島や天草のハイヤ、阿波踊りの男踊りに似た、頭上で両手を広げ、ひらひらと揺らしながら踊る単純な振り付けである。私も、昔覚えた阿波踊りもどきの所作で輪の中に加わった。不屈の民族のエネルギーが、爆発し、そして、小さくとも堅固な友情が交わされた夜であった。




              <14>マッコリの酔いとムーダン劇「クッ」 

                       

                    

  

 諸塚・南川神楽の皆さんは、今回の旅では始終上機嫌で、いろいろな面でやきもきしていた私を安堵させた。なかでも、韓国の地酒「マッコリ」がお気に入りで、仮面劇フェスティバルの会場へ着けば、南河(ナンガン)の川風に吹かれながら、まず一杯。出番が終われば一杯。夕食の食堂では、激辛の韓国料理に合うと言って盃をまた重ねる。そして、帰りがけにコンビニで買い込んで来たペットボトル入りのマッコリを抱えて、ホテルの部屋で深夜まで「反省会と打ち合わせ」と称した宴会。

普段焼酎で鍛えている面々は、底なしの酒豪ばかりであった。マッコリは、日本の「ドブロク」「濁り酒」に似て、少し甘味があり、醗酵気味なので炭酸水のような味わいも含有して口当たりがすこぶるよい。アルコール度数は4〜5パーセント程度なので、少々呑んでも大酔する心配はない。私も、久しぶりに昼間からアルコール分を注入した旅先の気分を味わって、良い心持ちであった。

ほろ酔いの一夜、韓国のシャーマニズム儀礼「クッ」を見ることができた。「クッ」とは、「巫祭」「巫儀」「賽神」「神事」などと訳される古式の祭儀で、ムーダン(巫堂)と呼ばれる女性霊能者=巫女が行う祭りである。「クッ」はシャーマンが守護神を招き、巫歌を歌いながら踊り続け、トランス状態になって託宣を下す祭儀で、男神と女神が相会する端午祭、漁村の婦人が中心の別神祭、豊漁と安全操業を願う豊漁祭、シャーマン自身の守護神を祀る花迎えなどがあるという。

韓国の巫女・ムーダン(巫堂)は、古くは神懸りして神託を語る自然神であったが、仏教や道教の他界観、儒教の儀礼的要素などが混交し、鎮魂儀礼、祖先祭祀等を行う人格神へと変容し、タルチュム(仮面劇)や民俗舞踊等の演劇的要素も加えながら民衆の祭儀を行うシャーマンとして定着したのである。夕焼けに染まる晋州市街が映える南河の川面を背景に、ステージ前の広場で繰り広げられていた演舞が、そのどれにあたるかは不明だったが、華やかに民族衣装を着て歌い踊る一群の舞が、古式の巫女舞であることはすぐにわかった。そして、長々と歌われる歌が、「巫歌」であろう。

長い巫歌が終わると、最高位の巫堂が広場の中央に置かれていた甕の縁に乗り、白い布を振りながらゆるやかに廻り、歌う。それが終わると、祭壇に供えられていた供物が観客に配られる。それが一段落すると、広場の中央に甕と豚の頭が置かれ、甕にはマッコリがたっぷりと注がれる。そして別の巫堂が登場して優雅な舞と歌を披露し、人々は、豚の頭にお金を供えて拝む。これらの一連の儀式が終わると、マッコリが信者や観客にも振る舞われる。広場では、若い巫堂たちが一層華やかに、踊り廻る。

踊りの輪が美しい円を描き、観客は、客席から立ち上がってその踊りの輪の中に入り、一緒に踊る。屈折した感情をどこかに置き忘れてきたような、陽気な韓国の人々がそこにいた。眼前に展開されるムーダンの祭りは、まさに神霊が降り立ち、神と人とがともに舞い遊ぶ「広場の遊戯=マダン劇」であった。


                    <13>恨(ハン)の記憶 
                       

                      

                              写真上・晋州城内からの眺め
                              写真下・韓国仮面劇会場での子供たち(左)
                                   と神楽の御幣を手にするい若い女性(右)

 シンポジウム「東アジアの仮面劇における性表現」での講演を終えて、私はすぐに仮面劇フェスティバルの開催されている会場へと向かった。諸塚・南川神楽の参加者は少人数で、裏方や端役での出演など、手伝う仕事は多かったのだ。

 シンポジウムの会場は晋州城内にある博物館だったので、仮面劇会場のある南河(ナンガン)河畔のステージまでは、30分ほども歩かねばならなかった。古城内の美しい景色や、南河沿いに展開する晋州市街などを眺めながら歩き、市街地を急ぎ足で通り過ぎながら、私の気分は沈みがちであった。この日、私には一時間の講演時間が予定されていたのだが、いつまでたっても自分の出番がわからず、ようやく講演が始まったのは午後一時過ぎだった。そして、その会場には観客は数えるほどしかいなくて、おまけに、講演時間も30分に変更され、さらに講演開始後20分に削られてしまった。自分のことは、まあ、大陸特有の大らかな時間感覚だろう、とか、客が少ないのは連休にかけたスケジュール設定が裏目に出たのだろう、などと割り切ることはできたが、せっかく参加し、「歳の神」という秘儀を公開して下さった南川神楽の皆さんに対して申し訳ない気持ちがつよかった。

 そういえば、前日の日本の神楽の時間帯になると、さあっと潮が引くように客席を立って去る人の多かったこと、晋州城内や市内の至るところで、「抗日」の英雄やエピソードを語るポスター展、写真展、演劇などが実施されており、それらの人の渦の中に、日本人を見る冷ややかな視線のあることなど、数々の「思い当たること」があった。そしてその視線の彼方に、あざやかに思い出される風景があった。

 私は小学生のころ、父親の仕事の都合で何度か転校をした。転校して行った先の学校で知り合いも友だちも一人もいない心細さと寂しさは言葉にできないほどの辛さだった。その友だちができる前の時期、突然一群の少年たちに取り囲まれ、喧嘩を挑まれたことがある。それは「チョウセン」と呼ばれ、クラスの中でも差別されている子たちだということはすぐにわかったが、私には喧嘩をする理由も敵対意識もなく、したがって戦闘意欲も皆無だったので、たちまち一人の子に組みひしがれ、固い運動場の土に押し倒されてしまった。その時、倒れながら私が見たものは、彼らの「怨恨」と「敵意」に満ちた眼差しと、仲間であるはずの日本人の子たちの冷ややかな眼であった。私はぞっとするような孤独感に襲われて泣き出してしまった。喧嘩はそれであっけなく終わったが、はからずも、私はそれから半世紀を経過して、この晋州の地で、同じ眼差しに出会ったのだ。

 朝鮮半島の民族が有史以来経験した苦難の歴史については、私は隣人として、また加害者に連なる民族の一人として深い同情と反省と陳謝の念を抱き続けている。戦後の歴史教育を受け、文学作品を読んだ多くの同じ年代の日本人もほぼ同じ感覚を持っていることを私は知っている。韓国の詩人「金芝河(キムジハ)」の詩集は今でも私の書棚を飾る大切な宝だし、抵抗と批判、韓国の仮面劇復興事業などを果敢に行ったこの詩人とその同胞を私は尊敬し続けている。けれども、今回の晋州における体験は、私の心が受け止めるには、大変、重い。「恨<ハン>」の記憶は、いつ、どのようにして鎮められ、清められるのであろうか。その答えは、今は見つからない



           <12>九州・宮崎の神楽における性表現 
                      
 


□九州・宮崎の神楽における性表現とは

 日本の神楽には、性表現が巧みに織り交ぜられ、五穀豊穣や子孫繁栄を祈念する儀礼となっているが、九州の神楽もその例外に洩れず、南国特有の大らかな表現によって観客を笑わせ、興奮させ、神々の関心を惹起して、五穀の実りや子孫繁栄を約束する。今回は、圧倒的な分布密度を持つ宮崎の神楽における性表現に焦点を当て、その実像や歴史的背景を探ってみたい。

1、高千穂神楽の御神体

宮崎を代表する神楽の一つである高千穂神楽では、三十三番が徹夜で舞い継がれるが、神楽の中盤で、「御神体(ごしんたい)」という演目があり、鬼神面の男神とお多福面の女神が出て、酒を濾し、互いにその酒を飲み交わして酔っ払ったあげく、性交に及ぶ。この男神はイザナギノミコトであり、女神はイザナミノミコトであって、二神は、新穀による酒造りの様子を演じながら、イザナギ・イザナミによる国産みの物語を語るのである。この場面は、国土創生神話と、新穀を神に捧げる新嘗(にいなめ)の神事とが混交した演目である。

                        


2、諸塚神楽の歳の神

高千穂神楽に隣接して、今回ゲスト出演してくださった諸塚神楽がある。かつて広大な諸塚山系に分布した諸塚神楽は、現在は南川神楽と戸下神楽の二座が三十三番を伝承している。諸塚神楽では、諸塚山の神々が降臨し、「舞荒神」「三宝荒神」などの土地神が圧倒的な存在感を示す。そこでは、渡来の神と先住の神とが激突し、やがて融合・協調してゆく物語が見事に演じられる。先住の神とは「土地神」であり、自然界の万物に宿る精霊神である。

諸塚神楽の終盤の演目「牛頭天(ごずてん)」の途中で、「(とし)の神」が乱入する。この歳の神は、仮面をかぶり、それぞれ、巨大な男根をぶら下げている。牛頭天皇とは、インド起源の疫病(えきびょう)神で、日本ではスサノオノミコト信仰・御霊信仰と習合し、疫病封じの神として信仰された。歳の神は、恐るべき疫病を退散させ、子孫繁栄を祈る儀礼である。

                        


3、米良山系の神楽の白蓋鬼神

米良山系とは、高千穂・諸塚・椎葉の山脈に連結する広大な山系である。ここには、南北朝伝承とともに流入した神楽が「都ぶり」の古風を伝え、「星宿信仰」や狩猟民俗・山の神信仰などと密接に関連しながら伝承されている。

米良山系の神楽では、南朝ゆかりの神々や米良山の神などが降臨し、重厚な物語を語り継いだ後、夜明け近くの人気演目「白蓋鬼神(びゃっかいきじん)」が演じられる。白蓋とは、神楽の御神屋の中央に吊り下げられる天蓋(てんがい)のことで、この天蓋とは、宇宙・星宿を表し、また母の胎内・胞衣(えな)をも表象する。すなわち米良山系の夜神楽は、宇宙とも母の胎内とも観相される空間の中で、夜通し舞い続けられるのである。白蓋鬼神は、道化系の鬼神面を着けて現れ、股間から屹立させた面棒で天蓋の中央に吊るされた小さな袋を突付く。その所作は擬似性交を表わしており、小袋の中には五色の切り紙(御幣)が入れられていて、白蓋鬼神の面棒で突付かれると、その切り紙が雪のように御神屋に降り注ぐ。その切り紙は「万物のもの種」といわれる。白蓋鬼神は子孫繁栄と五穀の豊饒を約束する神事舞である。

4、米良山系の神楽の「部屋の神」と「磐石」など

 米良山系の神楽では、岩戸番付で天照大神が出現し、夜明けが訪れた後、台所から舞い出て来る神がある。女物の衣装を着てひょうきんな表情の女面を着けた神である。この女神は「部屋の神」「(へや)の神」「磐石(ばんぜき)」などと呼ばれる老女神である。これらの神は、「めご」と呼ばれる籠を背に負ったり腰に提げたりしていることから、演目名を「めご舞」ともいい、神名を「めご面」ともいう。この籠の中には、杓文字(しゃもじ)やすりこ木、竹製の弁当箱、おこげ飯などが入っていて、めご面は、これらの器物を取り出して、天地陰陽の法則や国土創生の物語を語る。滑稽なやり取りが客席を沸かせ、最後に、男性器を象ったすりこ木を取り出して子孫繁栄の法を説くと、会場は爆笑の渦に包まれるのである。めご面は、台所に戻って舞い収める。

 このめご面の中で「磐石(ばんじゃく)」と呼ばれる神は、真っ黒な(おうな)面の神である。この磐石は、磐長姫(いわながひめ)信仰と混交している。米良山系の磐長姫伝承は以下のとおりである。

天孫・邇邇芸命(ニニギノミコト)一行が古代日向の国(西都原)に降臨(渡来)した時、そこには先住の女神・磐長姫(イワナガヒメ)木花咲耶媛(コノハナノサクヤヒメ)の姉妹がいた。美人の妹は見初められ、側に召されて天皇家の祖神となり、醜貌の姉・磐長姫は返上された。それを嘆いた磐長姫は自身の顔を映した鏡を投げ捨てたが、その鏡は遠く米良の山まで届き、日夜、光を放った。そこを「銀鏡(しろみ)」という。その後も磐長姫の嘆きは深く、一ツ瀬川を遡って、米良・小川の地に至り、隠れ住んだ。が、嘆きはさらに深まり、ついにその地で入水した。村人がそれを哀み、祀ったのが小川・米良神社である。この米良神社に伝わる小川神楽の磐長姫は、主祭神として神楽に登場し、美しい女面を着けて、華麗かつ重厚な舞を舞う。木花咲耶媛は祝祷(しゅくとう)の意を示す華麗な花の精であったが、磐長姫は、長寿を約束する岩の精であった。米良・小川の地に至った磐長姫は、山中深く、山の神信仰・女神信仰などとと習合しながら伝承されたのである。磐石の芸態は、部屋の神と大筋で一致している。

                            
                        

5、霧島・日南・宮崎平野部の神楽の道化と田の神

 霧島山系は、九州の南部を横断する山脈であり、高千穂の峰を主峰とする山系一帯に神楽が分布している。この霧島山系から黒潮打ち寄せる日南海岸、さらに宮崎平野部へと続く地域には、記紀神話の前段ともいうべき古代日向神話が分布し、神楽の演目にもその影響が残存する。霧島山系の神武伝承と剣の舞、日南海岸の神楽の海幸・山幸伝承などがその代表的な例だが、この地域にも米良山系の「めご面」に類似する芸態があり、「田の神信仰・田の神舞」と混交しながら伝承されている。霧島・狭野神楽および祓川神楽では、黒い翁面の田の神が出て、米良のめご面と同様の文言を語り、性的な所作をする。日南系の潮嶽神楽、宮浦神楽などでは、「曲舞(きょくまい)」「直舞(ちょくまい)」と呼ばれる演目で、黒い道化面の田の神が出て、女性器を象った笠をすりこ木で突付く。宮崎平野の船引神楽では、その名も「めご面」が出て、男根を股間にぶら下げ、神主と問答をする。それは米良のめご面と同系の芸態である。このことから、米良山系の山の神信仰と霧島・日南・宮崎平野部の神楽の田の神信仰とが混交されながら伝承されていることがわかる。これらの地域では、杵と箕を用いた「杵舞(きねまい)」「箕舞(みまい)」という演目もあり、杵が男根、箕が女蔭を表わし、杵で箕を突く所作を繰り返した後、盛大な餅撒きがある。

                              


□神楽の性表現は人間の根源的な欲求と神性表現

2008年9月に、奈良県桜井市纒向(まきむく)遺跡で木製の鍬を転用した仮面が発見された。

1800年の沈黙を破って現れたこの仮面は、ヤマト王権成立と同時期に、王権の中枢部で「田の神舞」に類似する仮面祭祀が奉納されたことを物語っている。その芸態は、前述した「山の神舞」や「田の神舞」に類似する芸能であると考えられる。神楽における性表現は、男性器を子孫繁栄のシンボルとしたり、女性器を豊饒をもたらす呪力の象徴としながら分布していることを考えれば、新しい支配者に対して行った先住民の服属儀礼としての芸能は、田の神舞に類似する予祝儀礼・感染呪術のごときものであり、その中には、性的な所作も含まれていたと推察できる。このようにみてくると、九州・宮崎に分布する神楽の性表現は、単なる余興や観客の笑いを誘う演技ではなく、古代の記憶を秘めた人間の根源的な欲求と神性の表現であり、芸能・演劇の深奥部に直結する儀礼であるとみることができるのである。
 
                              



              <11>アジアの仮面劇における性表現 
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 「晋州仮面劇フェスティバル」で毎回開催されるシンポジウムの今年のテーマは「東アジアの仮面劇における性表現」であった。韓国の仮面劇では、露骨な性表現が繰り返される。左右が紅白に描き分けられた
両班(ヤンパン)の仮面は二人の父親(つまり淫らな母)から生まれたとされ、黒い両班は遊女と両班の子または両班の奥方と黒人の子であるとされる。漂泊の旅路の果てに再開した白髪翁(シンハラビ)とミヤル(ハルミ)は性交の所作をする。小巫(ソム)との三角関係のもつれがこじれて死んでしまったミヤル媼の陰部に白髪翁が手を当てる場面もある。「婚礼マダン」と呼ばれる劇では、新郎と新婦が初夜の行為を行う。木偶伎(人形劇)では男根を屹立させた人形が両班家の棺を担いだり、大蛇を退治したりと大活躍をする。古くは、性交を行う土偶(新羅時代)などがあり、木偶伎はその系譜に連なる演劇であろうと推察されている。両班がからむ性表現は、貴族の権威を失墜させるための巧妙な設定である。翁と媼の性行為は、生殖行為によって子孫繁栄や万物の豊饒を祈る農耕儀礼の名残である。

中国の仮面劇における性表現も、古代史の資料の検証も交えて発表されたが、「性」に関する表現は、人類存在の根源的な問題と直接関わる事柄であり、各国ともほぼ似たような報告となった。

私は「九州の神楽における性表現」と題して講演した。イザナギとイザナミが新穀を醸して酒造りをし、酔ったあげく性交(国産み)に及ぶ高千穂神楽の「ご神体」、老女神が籠に隠し持った男根を取り出し、天地陰陽の法則を述べ五穀豊穣の祈願を演ずる米良山系の神楽の「部屋の神」、「磐石(ばんぜき)」などについて述べ、九州の神楽の性表現は、いずれも国家創生の物語を演じ、子孫繁栄・五穀豊穣を祈る神事儀礼の性格がつよいと報告した。

この後、諸塚・南川神楽の「牛頭天(ごずてん)」とそれに続く「(とし)の神」が披露された。シンポジウムの会場で、白衣の舞人が御幣を持って舞い続ける中、頬被りをし、襦袢と股引姿で、股間に巨大な木製の男根をぶら下げて現れる「歳の神」に参加者は驚き、悲鳴に近い笑い声も湧き起こったが、あらかじめ、私が、歳の神とは疫病神を封じた後子孫繁栄を願って舞う神事である、という説明をしてあったので、単なる猥褻や滑稽ではないということは、理解してもらえたようであった。諸塚神楽の「牛頭天」は、一連の荒神の舞が終り、夜明けが近くなった時刻に八人の舞人が御幣を持って激しく舞う。その途中、「(とし)の神」が乱入するのである。

今年、宮崎県は、「口蹄疫」という家畜の伝染病が大流行し、20万頭を越える牛や豚などの家畜が殺処分となった。科学・医学が進んだ21世紀においても、ウィルスに感染した家畜とその周辺の家畜をただ殺して封じるしか手立てが見つからないのである。古代のウィルス性伝染病=疫病こそ、「牛頭天皇(ごずてんのう)の祟り」などとして恐れられたものであったが、神楽「牛頭天」は御幣と舞、祈祷などの呪力によって疫病を封じる神事舞である。疫病が封じられ、村に平穏が訪れたことを祝い、子孫繁栄を願って、「歳の神」が舞うのである。牛頭天も歳の神も、諸塚の山と森の奥深く潜み続け、今も霊威を示す精霊神である。



aaaaaaaaaaaaaaaa<10>南川神楽の神々が韓国の地で舞った
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 宮崎県諸塚村南川神楽は、二日目から本格的な登場となった。初日(前夜祭)は、地区の神社から神楽宿へと舞い降る神々の行列を再現した。諸塚神楽では、仮面は「家」に伝わる例が多く、一年に一度の大祭の日にその仮面をつけて参加するのである。

 諸塚村は日向市と椎葉村の中間地点に位置する山村で、標高400メートル〜1000メートルの山地に集落が点在し、神楽を伝える。アジアの山岳の村を思わせる村には、古代から山に依拠する人々が居住し、平家の落人伝説や修験道の遺構も残る。中世以降は肥後の豪族阿蘇氏、延岡の内藤氏、高千穂の三田井氏などの影響を受けながらも、独自の山村文化を守り続けてきた。村には、南川、戸下、桂の三座の神楽が残り、古形を伝える。

 南川神楽と戸下神楽は、毎年、地区の集会所または民家を神楽宿として開催される。二十体以上の神面が神楽宿に舞い入った後、地区の氏神である「天神」「八幡」「権現様」などが次々と降臨し、深夜、「三宝荒神」の舞がある。三宝荒神とは、「天の神」「火の神」「土地の神」を表わす地区の根本神であり、偉大なる宇宙神・自然神である。

 午後一時頃に始まる諸塚神楽は、夜を徹して舞い継がれ、はるかな九州山地の峰々に曙の光が射すころ、神楽のクライマックス「岩戸開き」が奉納され、「天照大神」が出現する。

朝日を受けて神面が神々しく輝き、神楽の舞人も拝観者も思わず合掌するのである。

日本の仮面劇を代表して、この諸塚・南川神楽が「晋州仮面劇フェスティバル」に参加して下さったことは、意義深いことであった。私の神楽取材仲間で音楽家の三上敏視氏が初回からこのフェスティバルに参加しており、今回の南川神楽の出演をコーディネートして下さったのである。南川神楽のようなあまり知られてはいないけれど、がっしりとした骨格と古い形態を残し、仮面神の登場も多い神楽こそ、多くの神楽愛好家や仮面劇研究者に見てもらいたい神楽なのである。

さて、南川神楽の二日目は、「相舞(あいまい)」という神様呼び出しの舞に招き出されて「鬼神(猿田彦)」が重厚な舞を舞った。続けて、軽快かつ勇壮な弓の舞、さらに「天神」と舞い継がれた。とくに「天神」はその美しく神々しい神面が若い女性に大人気で、終演後、多くの女性たちに取り囲まれていたのが微笑ましかった。

三日目は、「相舞」に続いて「舞荒神(まいこうじん)」が出た。舞荒神とは古くから諸塚の山に居た地主神である。さらに、勇壮活発な剣の舞があり、「稲荷」、「柴引」と続けて舞い収めた。稲荷の豪壮な舞、「柴引」の榊を観客と鬼神が引き合うパフォーマンスなどが会場を沸かせた。総じて、静かで厳粛な神事舞の多い南川神楽に対して、観客は不慣れのせいか、おとなしい鑑賞態度だったが、若い女性などは特設の御神屋の脇にまで出て来て取り囲み、熱心に見てくれたことは嬉しかった。なかでも、「秘面」「御神体」などとされる古い神面を諸塚から運んで、演じて下さったことは観客に訴える力が大きかった。司会者に頼んで、この神楽には日本の「能」の原型を伝える芸風がある、という説明をしてもらった時には、深くうなずく人もいて、参加の目的の一つは果たされたと感じたものである。




aaaaaaaaaaaaaaa<9>マルトゥギと太郎冠者
 
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 韓国の仮面劇における白い翁と黒い翁が、日本の能楽の「白式尉」「黒式尉」と関係し、遠くアジアのシャーマニズムと連環しているということがわかった。ここで少し引き返して、韓国の仮面劇の「マルトゥギ」と日本の狂言の「太郎冠者」について考えてみよう。

「マルトゥギ」とは前述したように「下僕」を意味し、下層階級の使用人である。口は曲がり、顔の歪んだマルトゥギが、支配者であるヤンパン(両班=貴族)を痛烈に批判し、風刺し、笑いものにしてその権威を失墜させると、観客は、盛大な拍手と喝采を送る。

 この図式は、狂言の太郎冠者と合致する。太郎冠者とは、使用人のことであり、主人(大名、僧侶、山伏、叔父、大家など)の言いつけを守らず、悪口を言ったり、だましたり、勝手な行動をしたりして主人の権威を失墜させる。それがばれて主人に問い詰められるとさっさと退場し、主人が「やるまいぞ、やるまいぞ」と追いかけても、すでに花道の向うまで逃げおおせているのである。

 私が1986年から2001年まで運営していた「由布院空想の森美術館」で、故・野村万之丞氏を招いて「神楽と狂言」という企画を行ったことがある。約200点の仮面を展示した会場に舞台を設え、正午から神楽を上演し、午後7時から万之丞氏の狂言と仮面レクチャー、そして深夜、神楽の「岩戸開き」の上演で終わる、という12時間にわたる長時間の企画であった。

神楽は隣町の玖珠神楽を招いた。玖珠神楽は「享保年間に高千穂から伝わった」という伝承を持つ、古式の神楽で、「田の神」が出る狂言的演目も残している。万之丞氏は、狂言の名曲「清水」を演じて下さった。

『主人が茶の湯の会をするといい、太郎冠者に野中の清水を汲んでくるようにいいつけるが、日暮れてからの使いを嫌がった太郎冠者は「鬼が出た」と嘘をつき、水桶も捨てて逃げ帰って来る。不審に思った主人が清水の出る泉に行って見ると、なるほど鬼が出る。先回りした太郎冠者が鬼の面をかぶって脅していたのである。主人が怖がると、太郎冠者はこの時とばかりに、人使いが荒い、とか、太郎冠者には酒を振る舞ってやれとか、言いたい放題を言うのである。主人はひとたびは恐れ入るが、二度目には太郎冠者の演技を見抜き、化けの皮を剥ぐ。慌てる太郎冠者、「やるまいぞ、やるまいぞ」と追いかける主人。だが、太郎冠者はすでに花道の人なのである。』

以上が狂言「清水」の概要であるが、この曲には黒い鬼面「武悪」が使われた。そして万之丞氏は、空想の森美術館に展示されていた種々の仮面の解説に加え、狂言の発生やアジアの芸能との関連まで、熱心に解説して下さった。その後万之丞氏は2004年に神経内分泌がんのため44才の若さで急逝された。

私は、その時万之丞氏と交わした「いつか、一緒にアジアと九州の仮面文化の接点を探る旅をしよう」という約束を、単独ででも実行したいと願い続けていたのだが、今回の韓国仮面劇を訪ねる旅は、その第一歩となるものであった。マルトゥギも太郎冠者も、反骨の精神を秘めた「道化」であった。

 

aaaaaaaaaaaaaaaaaa<8>韓国の「黒い翁面」と「黒い媼面」

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 「晋州仮面劇フェスティバル」を訪ねる旅では、ずいぶん前に買っておいた、金両基(キムヤンキ)著「韓国仮面劇の世界」(新人物往来社/1987)と梁民基(ヤンミンキ)著久保覚訳「仮面劇とマダン劇」(晶文社/1981)という二冊の書物の世話になったが、なかでも、金両基氏の『韓国の仮面劇にみられる黒い仮面と白い仮面の対比が、大陸の白シャーマンと黒シャーマンを起源とし、日本の能楽の「白式尉と黒式尉」にまで関連しているのではないか』という解釈には大いに刺激された。

 韓国の仮面劇の白黒一対の仮面とは白い翁面の「白髪翁(シンハラビ)」と、黒い媼面「ミヤル(ハルミ)」である。この翁と媼は、マルトゥギや老丈(ノジャン)八墨僧(パルモクチュン)両班(ヤンパン)などが登場する体制批判の科場(クワジャン)(場面)ではなく、常民の祭りの科場に登場する、いわば祖先神である。まず、黒い媼面をつけた旅姿のミヤル媼が現れ、行方不明の夫を探す旅であることを語る。その扮装からミヤル媼がかつては巫堂(ムーダン)(巫女)であったことがわかる。続いて白髪翁が登場し、やはり離れ離れになったミヤル媼を探していることを語る。

やがて二人は再会し、激烈な情愛を交わすが、じつは白髪翁は愛人の小巫(ソム)を連れている。小巫もまた巫女の零落した遊女である。ここで白髪翁とミヤル媼、小巫の三角関係がこじれ、ミヤル媼は悲憤のあまり、死んでしまう。この一連の仮面劇は、賑やかな囃子に乗り、ミヤル媼の「ミヤル舞」や小巫の美しい「巫女舞」などによって展開されるが、金両基氏は、この場面を、陽の気・太陽神を象徴し祖先神・農耕神である白髪翁=白い翁と、陰の気・月神を象徴し土地神・産霊神を意味するミヤル媼=黒い媼との葛藤、そして若い性による再生産・豊饒・子孫繁栄などを象徴する小巫との交代劇であると読み解くのである。

大陸の白シャーマン・黒シャーマンとは、金両基氏が各地の研究者の報告を引用して語るところによれば、北ヨーロッパ、ロシア、シベリヤ、モンゴル、中国北部などには、善霊と交渉を持つ「白シャーマン」と悪霊と交渉をもつ「黒シャーマン」がおり、前者は善と幸福をもたらしてくれる神を招く能力を持っているとして人々に愛されるが、後者は悪や疫病、死などをもたらし、なかには人の魂を喰い悪霊に交渉して人を死に至らしめるなどとして恐れられる。性格を異にし、対立する白シャーマンと黒シャーマンは、相手を倒すまで戦うという。この白シャーマンと黒シャーマンの戦いの様子が演劇化されてアジアへも伝播し、韓国の白髪翁・ミヤル翁に投影しているのではないか、と考えるのである。

金両基氏は、さらに思索の旅を続け、この図式は、日本の能楽の「式三番」における「白式尉」「黒式尉」にまで及ぶと考察する。

日本の能楽は、神楽・田楽・猿楽という変遷を経て、世阿弥によって完成されるが、「翁・三番叟」をその根本の芸とする。「翁・三番叟」とは、まず白い翁「白式尉」が登場し、次に千歳、続いて黒い翁「三番叟(黒式尉)」が登場し、白い翁と黒い翁は問答をする。

白い翁は渡来神・祖先神、黒い翁が先住神・土地神と解釈されるが、韓国にも同系列の翁が登場する仮面劇があり、「とうとうたらり」という翁の謎の詞章を想起させる巫歌が存在するという。能楽の翁や民間芸能の翁と媼についてはさまざまな解釈があるが、遠くアジアのシャーマニズムを視野に入れた思索の旅は、壮大なスケールの地平へと私たちをいざなうのである。





                       

                   

aaaaaaaaaaaaaaaaaaaa  <7>風刺が育てた韓国仮面劇の芸術性

 「晋州仮面劇フェスティバル」では、南河(ナンガン)の河畔に設えられたステージとその前の広場で、多様な仮面劇が上演される。中国や日本の仮面劇を挟みながら、韓国の仮面劇も次々に上演された。韓国の仮面劇には復刻された古式の祭りと、現代劇とがあり、それらが、入れ替わり立ち代り演じられ、スケジュールの都合で部分的にしか見られない演目もあったので、今回その詳細を記録することは無理だったが、韓国仮面劇の主要演目「マルトゥギと両班(ヤンパン)」「八墨僧(パルモクチュン)老丈(ノジャン)」「白髪翁(シンハラビ)とミヤル(ハルミ)」「小巫(ソム)」等の大筋を把握することができたのは、私にとって大きな収穫であった。以下はその概要である。

 「マルトゥギ」とは「下僕・下人」を表わす下層階級の使用人であり、口は曲がり、顔全体がぐいと歪んだ黒い仮面をつけて現れる。そして両班を嘲弄し、風刺し、痛烈に批判する。「両班」とは李朝時代にこの国を支配した貴族などの特権階級である。両班は、茶褐色の顔一面に白い斑があり口や鼻が溶けて歪んだハンセン氏病患者を表わす仮面、二人の父親を持つことを意味する顔の左右が紅白に分かれた仮面、黒人の子孫であるという真っ黒の仮面、鼻が曲がった仮面や中風にかかったことを表わす仮面など、極端にデフォルメされた仮面をつけて現れる。その現実にはありえない仮面が両班の腐敗と堕落を表わしてすでに滑稽なのだが、最下層民であり使用人であるはずのマルトゥギに馬鹿にされ、散々に嘲弄されて、権威を失墜させられるのである。

 赤や黒褐色、黄色などをベースとしたグロテスクな色彩と滑稽な表情をした仮面をつけて舞う「八墨僧」とは、八人の僧侶である。仏教僧は高麗時代には両班と同じく支配階級に属していたのだが、李朝時代に入り、儒教が国教となると没落し、酒食に溺れる破戒僧となる。老丈は悟りを開いた高僧だが、人界に降り、小巫の美しさに惑わされて破戒僧となる。が、小巫は次に現れる酔っ払いの「酔発」に金で奪われる。老丈は黒く歪んだ仮面、酔発は酒に酔った赤い顔の仮面である。それぞれ、デフォルメされた滑稽な表情である。

 白い翁面の「白髪翁」は、愛人の小巫を連れて旅をしているが、その妻「ミヤル媼」と再開し、情を交わす。が、たちまち小巫との三角関係がこじれて、ミヤル媼は傷心のあまり死んでしまう。黒い姥面のミヤル媼が哀れを誘うが、演技は性的な所作が交えられて、滑稽である。この演目は農耕儀礼の名残であるという。

 「小巫」は可愛らしい白い女面をつけて現れ、清楚で優雅な舞を舞う。この小巫は巫女が零落した遊女であり、両班や酔発、老丈などを手玉に取り、堕落させ、金を巻き上げ、子供を産み捨てて去る。したたかで悩ましい存在であるが、これもまた、支配階級を風刺する一級の素材なのである。

 周辺の諸国から侵略され続け、同族からも過酷な差別に苦しんだ朝鮮半島の民衆は、支配階級を「笑い」の対象とすることで、溜飲を下げ、鬱憤を晴らした。「風刺」に隠された強靭な生命力と反抗精神、民族独立の気風などが、芸術性の高い朝鮮・韓国の仮面劇の骨格を育てたのであった。

                           



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  ととととととととととととととととととととととと     国東半島成仏「寺修正鬼会」の鬼

aaaaaaaaaaaaaaaaaaa<6>中国の仮面劇「儺戯」と日本の「追儺」儀礼 

 「晋州仮面劇フェスティバル」に参加していた中国広西省南豊県石郵村の「儺戯」を伝える人々は、漢族の人たちだったが、深い山岳に抱かれた村の住人で、少数民族のような風情を漂わせていた。日本からの参加者とは、祭りの場だけでなくホテルや食事の場、送迎の車の中などで一緒になる機会が多かったので、次第に打ち解け、笑顔で会釈を交わしたり、食堂では韓国の地酒マッコリを注ぎ交わすまでになった。とくに南川神楽の皆さんとは、同じ伝統芸能の伝承者同士としての親近感のようなものも感じられたが、今回は中国語と日本語とが通じる通訳がいなくて、交流が深まらないままに終わったのが心残りであった。別れ際、いつか、彼等の住む石郵村を訪ねてみたい、と伝えたら、「ぜひ来て下さい。歓迎します」と通訳を通じて答えてくれた笑顔が清々しかった。

「追儺」とは、古代中国で発生した善鬼が悪鬼を追う儀礼で、中国では「(ヌォ)」あるいは「儺戯(ヌォシ)」と呼ばれる。伝説の王「黄帝(こうてい)」、祭りの先導神「蚩尤(しゆう)」、仮面劇の祖神「方相氏(ほうそうし)」などの流れを汲む演劇である。

「黄帝」とは、およそ五千年前の古代中国に栄えた「夏王朝」の王のことで、文字の使用開始者とされ、天文・暦学・薬学などの始祖ともいわれる。前漢時代の史書「漢非子(前280233頃)には、黄帝は『鬼神を泰山に集め、象車に乗り、六龍をつなぎ、木の精の「畢万(ひつまん)」を横に従え、軍神の「蚩尤」が先導し、風伯・雨師・虎狼・蛇神・鳳凰などを従えて行進した。鬼神は後方を守った』と記され、当時、すでに五行の思想や善鬼が悪鬼を追う儀礼が発生していたことがうかがわれる。

春秋・戦国時代の歴史書「周礼(しゅらい)」には、この蚩尤の役割を「方相氏」が演じる儀礼(神楽の原型ともみられる演劇)が記録されている。方相氏は、黄金の四つ目の仮面を被り黒衣に朱色の衣装を着て、熊の毛皮をかぶって矛と盾を手に祭りの行列を先導した。

日本には、陰陽道の行事として伝わり「追儺」と呼ばれる儀礼として定着した。今もなお近畿地方一帯に残る「追儺」「修生会」の行事、奥三河の「花祭り」、大分県国東半島の「修正鬼会」、福岡県大宰府天満宮とその周辺に分布する「鬼すべ」などがそれである。近畿地方の追儺・修生会は朝廷や貴族の庭、寺院などで行われた儀礼として伝わり、奥三河の花祭りは、「榊鬼」「釜割鬼」などの大仮面の鬼が、鉞を持って「湯立て祭り」の場に現れ、大暴れする。花祭りの鬼は、村人に慕われ敬われる「山の神」のような性格がつよい。国東半島の修正鬼会の鬼も大仮面をかぶって現れるが、村人は「鬼に会うことは祖先に会うこと」といっている。花祭りの鬼や国東半島の鬼は、災いを払う来訪神である。大宰府の「鬼すべ」では、鬼面を掲げた鬼役を先頭に、松明を掲げた「鬼衆」が「オンジャ、オンジャ(鬼じゃ、鬼じゃ)の掛け声とともに参道を駆け抜けるが、その松明が向かった「鬼堂」には「追われる鬼」が封じ込められていて、松明の火で追われ、鎮められる。

節分の鬼もまた追われる鬼の典型であるが、この鬼は、災いをもたらす鬼というよりも、災難を背負わされて追われる悲しい鬼である。子供たちは「鬼は外」と鬼を追いながらも、親しみを感じている。渡来の鬼は、さまざまに変容しながらも、現代に生き続けているのである。

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乳乳乳乳乳乳乳乳ちちちちちちちちちちちちちちちち    福岡県太宰府天満宮「鬼すべ」の鬼


                     

                

           <5> 中国の仮面劇「儺戯」に出会った

 「晋州仮面劇フェスティバル」は、東アジアの仮面劇の比較研究を目的として開始され、その主旨にもとづき、日本からも毎年、神楽が招待され、参加している。三年前の高千穂・秋元神楽、今回の諸塚・南川神楽の出演もそれに沿うものである。

 日本の神楽の他には、中国の少数民族に伝わる仮面劇も出演している。いつか実見したいと思い続けていた中国の仮面劇「儺戯(なぎ)」を見る機会は、案外早く訪れた。中国広西省南豊県の儺戯の伝承者の一行が参加していたのだ。会場で貰ったパンフレットをみると、石郵村というその村は上海の南方の山深い地域で、漢族の村である。

「儺戯」とは、善鬼が悪鬼を追うという仮面劇で、日本では「追儺(ついな)」と呼ばれ、古代中国・春秋時代には祭祀儀礼として確立していたと思われる。「方相氏(ほうそうし)」という黄金・四つ目の仮面を被った「善鬼」が「悪霊=悪鬼」を追うこの儀礼は、アジア全域に影響を及ぼしながら歴史の変遷とともに消長を繰り返し、日本にも伝わった。今もなお庶民の季節祭として親しまれる「節分」や、各地に残る「鬼会(おにえ)」「鬼やらい」がそれである。中国本土では、毛沢東が主導した文化大革命の折に壊滅的打撃を被ったが、周辺国や少数民族の村、山岳地帯などにかろうじてその系譜が残った。今回参加した石郵村もそのような村の一つであろう。 

石郵村の「儺戯」は、大人数の参加であった。まず、ステージ正面に祭壇が設えられ、「児人」という子供の人形が祀られて、種々の供物が供えられる。やがて全員が賑やかな奏楽とともに入場し、会場を一巡、15人ほどの楽人が広場の左右に別れて座る。

そこへ、マサカリを持った茶色の鬼神「開山」が登場し、激しく舞う。次に小さなマサカリを持った緑色の鬼神「祭刀」が現れ、同じく荒々しく舞う。この二神が先導神のようである。続いて、左右に錘のようなものの付いた紐を持った茶色の鬼神が、その紐を手に宙返りをしたり、引っ張ったり、地面に置いてその上を飛び越えたりしながら舞う。日本の神楽の「地割(じわり)」のような演目である。

さらに「魁星」という神は、筆と墨壺を持って文字を書く所作を繰り返しながら舞い、刀を持った金色の鬼神や槍を持った鬼神、輪を持った肌色の鬼神などが続いて舞う。奏楽は賑やかに囃し続けている。そこへ、翁神(儺公(なこう))と女神(儺母(なぼ))が登場して、中央祭壇の人形「児子」を取り、捧げ持って舞い踊る。二神は観客席へも舞い入り、人形を次々に手渡したり、客と酒を酌み交わしたりして交歓する。児子は祭壇へ戻される。この後、翁神と新たに現れた赤の鬼神が矛を採って闘う場面があり、続いて青の鬼神二体が印を切りながら舞い、さらに酒器と盃を持って舞いなから中央で酒を酌み交わす「酔酒」の舞などが繰り広げられる。

先導神が祭りの一行の先触れとして現れ、地の霊を鎮める舞、悪鬼を追う演目、祖先神が守護神的童子神を捧げて舞う舞などがあり、最後は曲芸的な人間櫓を組んで舞い収めるという、まさしく「追儺」の様式に民間宗教が習合した祭りで、南九州の神楽に類似する要素を多く包含していた。盛大な演舞が会場をおおいに喜ばせる趣向となっているが、現地では、古代の儀礼を引き継ぐ「村の祭り」として伝わり、演じ続けられてきたものであろう。演舞者たちは、皆、山仕事や農作業を生業としているような、素朴な老人と青年たちであった。




              

              <4> 歴史の闇を笑い飛ばす

 「晋州仮面劇フェスティバル」の会場入口には、巨大な仮面群によるオブジェが設えられ、来場者や出演者を迎えていた。それは、1メートル近くもある巨大仮面や人がつけて使用する実物大の演劇用の仮面などで、韓国の現代仮面製作者による作品だということであった。

朝鮮半島の仮面は、もともと悪霊が宿るものとして「焚焼(ふんしょう)」の儀礼によって焼却され(天に返され)たこと、高麗・新羅時代には存在した道教祭祀を中心とした民間宗教系の仮面も儒教を国教とした李朝時代には激減したこと、日本軍による占領時代に仮面劇そのものが禁止されたことなどによって壊滅状態となったことなどが重なり、古い仮面が残っていないのは残念である。けれども、解放後、仮面劇の復興とともに仮面の復刻も進み、ここにみられるようなすぐれた仮面が制作され、使用されているのである。

朝鮮半島の古仮面については、新羅の鬼面(瓦)、百済の鬼面(青銅)、古新羅時代の方相(ほうそう)氏仮面(木製)、国宝の河回(ハフェ)仮面(高麗中期頃の木製仮面。両班、僧、白丁、小巫などがある)、ソウル大学校中央博物館所蔵の山台仮面(黒の木製老丈面など)が知られる程度である。仮面の種類は、ヤンパン(両班)、モクチュン(墨僧)、ノジャン(老丈)、チュイパリ(酔発)、シンハラビ(白髪翁)、ミヤルハルミ(ミヤル媼)、マルトゥギ(下僕・下人)、カクシ(閣氏)、ソム(小巫)などを主とする。

両班(ヤンパン)は貴族で、徹底的な風姿の対象となり、その権威を失墜させられる役割である。不具者やハンセン病患者、黒人の子などさまざまな仮面がある。墨僧(モクチュン)は酒食におぼれる破戒僧、老丈(ノジャン)は悟りを開いた高僧だが遊女の小巫(ソム)の誘惑に負ける。酔発(チュイパリ)は破戒僧または商人で老丈から小巫を奪い子を生ませる。白髪翁(シンハラビ)は妾同伴で旅をする翁、ミヤル(ハルミ)はその妻で黒い媼面である。マルトゥギは下人だが批判精神旺盛な道化で両班を散々に風刺し、観客の喝采をあびる。閣氏(カクシ)は守護神的女神、小巫は巫女の零落した遊女で美しく愛らしい女面。

これらの仮面は、極端にデフォルメされ、不気味ともとれる笑みを浮かべている。この笑みは、両班=貴族の支配化に置かれた民衆が、仮面劇によって支配層である貴族や僧侶を風刺し、笑いの対象とし、その権威を失墜させて鬱憤を晴らした「武器」である。朝鮮半島の古仮面(三国時代〜高麗、新羅頃)は、神として祀られた神面であったが、李朝時代に入り、儒教が国教とされ、仮面劇は被差別民のみに許された(黙認された)芸能となった。抑圧された民衆は、腐敗・堕落した両班や仏教僧などを風刺・笑いの対象とし、批判し、溜飲を下げたのである。

かつて「神面」として霊界や魔界を支配した仮面は、人間界に降下して「神事=威嚇・凄み」の要素が脱落し、下層社会の中で徹底的に歪められ、「風刺=洒脱・飄逸・笑い」という表情へと変容した。それは、自由闊達な芸術的造型世界への飛翔でもあった。韓国の仮面は、歴史の闇をも笑い飛ばす、強靭な精神力を秘めた仮面であった。




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aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa a<3>晋州の骨董街と晋州古城散策

 「晋州仮面劇フェステイバル」参加の旅の三日目の朝がきた。いよいよ今日から出演本番を迎える。と、いっても、午前中は出番がなく、ショッピングまたは自由時間となっていたので、晋州市内の骨董街を歩いた。ホテルは晋州古城の近くにあり、城の高い石垣に沿って15分ほども歩くと、骨董屋の並ぶ町並みに着く。晋州は古い歴史を有する都市だが、町並みは近代化が進んでおり、日本の地方都市と風景はさほど違わない。むしろ骨董街のような場所こそ、古き良き時代の(つまり李朝時代の)面影が残っているはずだと思ったのである。その予想はぴたりと当り、李朝の家具や、陶磁器、神像、石製品や生活臭あふれる民具などに出会ったのは楽しいひとときであった。

町並みをぶらぶらと歩くと、中庭に大きな甕が山のように積んである家や、道路にまではみ出すほど並べられた石臼や巨大な石の神像、薄暗い店内に並べられた発掘品などが目についた。観光地にありがちな贋作やコピー商品を並べて一見(いちげん)の客を狙う骨董屋とは違い、生活に密着した道具類を商う店が多くて、好感が持たれたのである。

ただし、ひそかに期待していた韓国の古仮面との遭遇は空振りに終わった。私の手元には、今から二十年ほど前に手に入れた二点の木製の李朝仮面があり、それに類する仮面が見つからないかと思っていたのであるが、もはや古い仮面は骨董のマーケットにも出ていないのだということがわかった。

同行の友人が李朝人形を買うのに付き合い、私は燭台を1台だけ買って、古い町と別れた。その燭台は、上部が木製で、台座は石で出来ており、その台座の部分には細かな彫刻が施されていた。高価なものではなかったが、李朝時代の文人の書斎を照らしたもののように思えて、私はそれを大事に宿に持ち帰った。

骨董街から晋州古城内へと続く石段があったので登ってみた。するとそこは城に隣接する古い寺の境内で、大きな木に囲まれた寺が静かに佇んでいた。寺の横の通路は、晋州の城内に続いていた。登って来た方角と反対の石垣に沿って歩くと、ゆったりと流れる南河の流れと晋州の市街が見渡せた。町も川も古城も5月の緑に映えて美しく輝いていた。

この城こそ、豊臣秀吉侵攻の折り、守りの要となり、秀吉軍撃退の拠点となった城だという。城内の中心地に博物館があり、その戦史やエピソードを語り継ぐ展示もされているという。何百年も前の先祖が侵した愚かな行為を恥じ、ふかぶかと頭を下げる心境で、私はそこを通り過ぎた。

 夕刻、会場に着くとすでに祭りは始まっており、韓国の仮面劇が上演されていた。それは、葬礼の行列を表わしたもののようで、御輿をかつぎ、合唱と哭礼(こくれい)を行いながら行進する群舞が展開されていた。言葉はわからず、一行のハングル文字も読めない私には、劇のタイトルも内容も理解できなかったが、最後尾を、涙を流した造型の仮面が付き従って歩く場面が、つよい印象として胸に残った。いよいよ韓国仮面劇の本場へ来た、という実感が湧いてきた。

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                    <2> 激辛の韓国料理で迎えられた

 玄海灘の荒波を越え、無事、釜山(プサン)港に着いた。薄暮の色彩を残した釜山は大きな明るい港町で、海峡を隔てて対面する九州の門司と下関を合わせたような印象であった。

 そこからバスで南西へ二時間。晋州(チンジュ)は朝鮮半島南部の大都市であった。その古い町に到着した時はすでに夜更けだったが、地元の実行委員会の皆さんが待ち構えており、ナンガン(南河)という大きな川を見下ろす食堂で、新鮮な魚や貝の刺身を中心とした料理でもてなして下さった。つよい香りの地獲れの魚や貝、激辛(げきから)の韓国料理などに舌鼓を打ち、最後に魚のスープと金属の椀に入った白飯を食べた時、アジアへの旅の始まりを実感したのである。

 「東アジアの仮面劇の比較研究」をテーマに始められたこの「晋州仮面劇(タルチュム)フェスティバル」は、今年で13回目を迎えるということで、若者たちが熱心に取り組んでいる姿が好ましかった。行政や企業の支援に頼るのではなく、実行委員会で運営しているということで、その熱意がよく伝わってきた。南川神楽の皆さんも大変喜び、すぐに実行委員と打ち解けていた。船の中で思いをめぐらした過去の不幸な歴史や民族間のわだかまりについての心配は、「現場」の「人と人のまじわり」においては無用のことのようであった。

 翌朝、8時過ぎにはホテルを出て、近くの大衆食堂で朝食。テーブルには10種類以上の漬物類が小皿に盛られ、金属製のお椀に入った白飯と牛肉のダシによるスープ、ワラビ、ダイコン、モヤシを中心とした青野菜の鉢盛がどかりと置かれていた。これらすべての皿や鉢が香辛料の効いた激辛の料理であった。

 10時過ぎには近くのスーパーに案内され、ショッピング。昼まで休憩した後、歓迎の昼食会は市内の大きなレストランでバイキング式の韓国料理。どれもが極上の料理でおいしいのだが、辛い。どこへ行っても辛い。慢性の内臓疾患を抱える私の身体は、すでに悲鳴をあげそうになっている。韓国を楽しく旅行するためには、頑健な内臓機能が必要だ。一説によると、北はロシア、西は中国、東は倭国・日本等、絶えず近隣諸国からの侵攻に喘いできたこの民族は、食べ物を辛くすることで食糧の供給を拒んできた一面があるという。美味の蔭に隠された歴史をかみしめることもまた「食」の旅の一コマである。

 午後3時過ぎ、ようやく仮面劇フェスティバルの会場に着き、リハーサルを兼ねた前夜祭に参加することができた。そこは南河(ナンガン)の川辺に設えられた特設ステージで、遊歩道の石段まで取り込んだ会場は多くの観客を収容することができる。入口には、高い竿に取り付けられた大小の仮面群によるオブジェが、風にはためく五色の旗に彩られながら出演者たちを待っていた。川の両岸には晋州の市街が広がり、川面は静かに町の景色を映しながら流れている。遠景には小高い山も見える。

 次々に登場する出演者たちに混じり、諸塚・南川神楽は「舞い入れ」を披露した。地区の神社での神事の後、その夜の神楽宿へと仮面をつけた神々が舞い入る様子を再現したのである。私も持参の仮面をつけて、舞い入れの列に加わった。
                       


                       

                   <1> 海峡の波は高かった

 博多港と釜山(プサン)港を結ぶ高速船「コビー」が出航し、玄海島を右手に見ながら速度を上げ始めた。旅は順調に始まった。

 三年前、私は「韓国・晋州(チンジュ)仮面劇(タルチュム)フェスティバル」に招待され、宮崎県高千穂・秋元神楽の伝承者の皆さんと一緒に、この海を渡るはずであった。ところが、すべての準備を終え、参加者全員が船に乗り込むのを確認し、列の最後尾に自分が位置して、さて、出国のカウンターを通過しようとしたところで、ストップがかかった。何がなんだかわからずに戸惑う私に、係員が私のパスポートを掲げ、「このパスポートは期限切れです」と宣告したのだ。単純な有効期限の読み違えで、私は痛恨の失態を演じ、主催者や同行者の皆さんに多大の迷惑をかけたが、その時、すでに船に積み込まれていた20点の「九州の民俗仮面」は無事仲間の手で現地の博物館に展示され、「交流」の役目を果たした。今回の宮崎県諸塚・南川神楽の一行に同行する晋州行き(2010429日−53日)は、私にとっては名誉挽回の渡海でもあり、韓国の仮面劇を実地に見ることのできるはじめての機会であった。

心地よい揺れに身を任せながら、少し眠り、目覚めたのは、対馬の沖を通り過ぎる頃だと思われたが、船は激しく揺れていた。天候が急変し、玄界灘が荒れていたのだ。左手の窓の外には逆光を浴びて銀色に光る海原が上下し、右手の窓には藍青の海に立つ白い三角波が次々に押し寄せていた。海峡に吹く風は、こうして、幾世紀にもわたり航海者たちの夢や野心や希望、航海術や熱意、運などを試し続けてきたものであろう。

有史以来、日本列島と朝鮮半島の間には、不幸な事例が記録され続けている。

その一 神功皇后の「新羅遠征」。日本書紀には「三韓遠征」と記される。遠征の帰途、現在の福岡県宇美町で応神天皇が生まれたとされる。

その二 663年(天智二年)の「白村江の戦い」。百済の要請を受けて出兵した倭国と百済の連合軍と唐・新羅連合軍の戦い。朝鮮半島の東部・白村江(現在の錦江付近)での海陸の戦いで倭国軍は惨敗。これにより百済は滅亡。この後、倭国は百済の難民を多数受け入れ、種々の日本文化の原型ができる。

その三 豊臣秀吉の朝鮮出兵 「文禄・慶長の役」と呼ばれる。1592年と1597年の二度にわたって行われた秀吉による侵略戦争。この無謀で愚かな戦争が豊臣政権崩壊の主因となり、秀吉は、下層民から出世した国民的英雄から歴史的愚者の位置に転落した。

その四 日本軍による朝鮮半島統治 1910年の「韓国併合」から1946年の太平洋戦争終戦まで断続的に続いた。この時期、宗教や文化は日本化され、仮面劇も禁止されたためほぼ壊滅状態となった。

以上のように、隣国でありながら、常に支配下を試み、多大な迷惑を国家と人民に与え続けた「倭国=日本」の「国家としての歴史」は、現在も朝鮮半島の人々の間に深い怨恨と傷跡を残し、海峡に横たわっているのである。玄海灘の風波を眺めながら、私はそのことを考え続けていた。

                  


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