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狼を祀る山
(1)
多摩川上流へと続く道




東京駅から中央線に乗り、青梅で降りると、そこは通り過ぎてきた都市の風景とは異なり、
青みを帯びた山脈が遠望される、山間の小さな駅だった。
「昭和」のデザインを復刻したプラットホームや食堂、駅舎のたたずまいなども微笑ましく、
これから始まる旅が魅力的なものになることを予感させた。
鉄道に沿って走る道が「青梅街道」で、色づき始めた広葉樹が初秋の旧道を装飾していた。



車窓から時折見える深い谷が、多摩川上流の渓谷であった。
多摩川は、山梨県・埼玉県の県境にある笠取山(かさとりやま)(標高1953m)山頂の
南斜面下「水干」(みずひ)を源流とし、奥多摩、青梅を経て関東平野に注ぐ大河である。
青梅より下流が中流域で、旧・武蔵国である。武蔵・相模は関東武士の本拠で、
古来、政権樹立や武力闘争が繰り返されたが、徳川政権による江戸幕府開設により
日本の文化の中心地となった。多摩丘陵・武蔵野は江戸文化を支えた周縁部であった。
下流は東京都・神奈川県の県境を流れ、東京湾に到る。
多摩川は、甲斐・信州・秩父の山脈に連なる山系の水を集めて関東平野を潤し続けているのである。



多摩川上流に狼(オオカミ)を祀る山があり、今もなお、オオカミの護符が頒布されているという。
武蔵国御岳(みたけ)山。秋の一日、その山へ向かう小さな旅である。




(2)
武蔵国御嶽山へ



JR青梅線御嶽駅で下車。青梅線は、奥多摩へと北上する。
線路と並行に青梅街道が走り、道の直下を多摩川が流れる。
バスに乗り換え、多摩川にかかる大きな橋を渡る道が、御嶽山へと続く道である。
橋上から、多摩川・御嶽渓谷とその奥に控える山塊を望むことができる。



御嶽山は、秩父・多摩・甲斐の山々に連なる信仰の山で、
関東平野からこれらの山系に向かう入り口に位置する。山上に、
山岳信仰の名残をとどめる御嶽神社があり、狼を祀る。
バスの終点から、ケーブルカーで山上駅まで登り、山道を辿って御嶽神社へと向かう。
山道にトリカブトの紫の花が咲いていた。植生が「里」から「山」へ、
がらりと変わる。濃い紫の色が、神秘の空間へと誘った。



(3)
御師の村を歩く




甲斐・秩父・多摩・日光へと連なる関東の山々には、古くから、「狼」=ニホンオオカミを
「山犬」として祀る習俗があったらしい。狼は、猪・鹿・兎などの動物を獲る、
山林生活者にとっては有益な動物であったため、
「山の神」または「山の神の使い」として信仰され、祀られたのである。
密教・修験道等の山岳宗教者は、狼を守護獣として護符を発行し、それを里へ頒布した。
関東平野の里人は、それを門口や小屋、田畑の入り口などに掲示し、
災難除け、防災の守り札とした。また、講を形成して山岳寺院へ参拝することも流行した。
関東平野からみて、甲斐・秩父・信濃・上州へと連なる広大な山岳の入り口に位置する
武蔵国御嶽山もその信仰の山で、多くの参拝者が山を目指したのである。



御嶽山のケーブルカーは、一気に400メートルの高度差を上り、
山上駅へと現代の登山者を運ぶ。駅前の広場からは、武蔵国・関東平野が遠望され、
広場に沿って食堂やみやげ物を売る店が集まっている。
そこから狭い道に分け入り、山道を歩くと、ほどなく小さな鳥居があり、
鳥居を通して先鋭な山頂が青みを帯びて聳える山が見える。
御嶽山の神体山である男倶那山である。
登山者は、ここで「神の山」に向かって拝礼し、山へ入るのである。



道は、深い森を縫って上り、やがて「御師」の村に着く。
御師とは、修験道の行者(山伏)、神社の神主、密教僧などが混交した宗教者で古くは、
祈祷・呪術・医学などを行い、山岳信仰を広めた。
山岳を自由に往来できるこれらの宗教者たちは、
様々な文化・情報・芸能等を各地に運ぶ役割も果たした。
江戸期に入り、幕府の定住政策により、里や山に拠点を構え、
さらにその文化を定着させる役割を担った。御嶽山の中腹に残る御師集落は、
その名残を今に伝える村である。






(4)
山犬の道・獅子の道


武蔵国御嶽山への旅は、小倉美惠子/著「オオカミの護符」(新潮社)が導いてくれた。
以下はその著作照会文。
『川崎の我が家で目にした一枚の護符。描かれた「オイヌさま」の正体とは?
50世帯の村から7000世帯が住む街へと変貌を遂げた、神奈川県川崎市宮前区土橋。
長年農業を営んできた著者の実家の古い土蔵で、護符の「オイヌさま」がなにやら語りかけてきた。
護符への素朴な興味は、謎解きの旅となり、いつしかそれは関東甲信の山々へ──。
都会に今もひっそりと息づく、山岳信仰の神秘の世界に触れる一冊。』

インターネット検索では、
「多摩川流域の山岳信仰と自然保護に関する調査・研究」長野覺(2005)で
その自然生態系の諸相や宗教的背景を知ることができる。
長野氏は、北部九州修験道の拠点として栄えた英彦山(ひこさん)の修験者の末裔で、
山岳宗教・修験道の研究者である。私は英彦山山伏の入峰修行に同行した記録
「天上の道/復活英彦山峰入り修行」(鉱脈社)作成の折、ご教示を得たことがある。

武蔵国御嶽山への小さな旅の先導者は、俳人の石地まゆみ君。
彼女とは、由布院空想の森美術館で企画展(写真展)の実行で世話になって以来、
長い付き合いとなった。ここ10年ほどは宮崎の神楽に魅了されて通い続け、
秀句をものにしている。第一句集「赤き弓」(深夜叢書社)に収録された

 天狼に 赤き弓引く 祝子かな
 冬銀河 いざ蓬髪の 地主神

等の句は、忘れがたい。



俳人とは、不思議な人種というべきである。小さな手帳を手に、茫と天空の一点を見上げていたり、
道端に座り込んで、長い間、何かを観察したり、よその家の門口にたたずみ、
何かを思案したりする。彼ら、彼女らの頭の中では、無数の言葉が駆け巡り、
古今東西の事例や物語と結合したり、また離れたり、あるいは、小虫や草花や、
地の霊・森の精霊の声を聞き分けようとしていたりするのだろう。
時には、走り出して山の中に消えたり、先回りして思いがけない道を辿ったりしていることもある。
その行動は、一般人からみれば唐突に感じられたり、奇異に見えたり、
場合によっては迷惑がられたりもするのだが、それが俳人の特性であり、
創作の原動力であると認識して交流すれば、
彼ら・彼女らが、率直で天真爛漫なクリエーターだということが分かる。

昔、「サブ」という黒犬を飼っていた。利口で忠実で一途な犬だったが、
時々、自分の考えで行動し、飼い主の意図するところとは違う道を走っていたり、
追い立てた獲物の先回りをしたつもりが、それが敵の計略であって、
結局まんまと逃げられてしまうという失態を犯したりする飄軽さもあわせ持っていた。
時折、俳人であり、よき同行者でもある石地君とサブが重複して見え、
微笑みを誘われることがあるが、今回、「オオカミの護符」を、
近所の図書館から借り出してきてくれたのはお手柄であった。
この書は、新聞の図書欄で紹介されて知ってはいたのだが、入手機会を逸していたのだ。
私はこの本を、投宿中の日本橋人形町のウィークリーマンションの一室で読みながら眠り、
仕事に出掛け、帰ったら簡単な食事を作って缶ビールを飲み、
また横になってこの本を読みながら眠る、という日を繰り返した後、
ようやく御嶽山へ向かう列車に乗ることができたのだった。
列車の中で、まだ読み終えていない「オオカミの護符」の続きを考えたり、
浅い夢の中でサブらしき黒犬と再会したりしていた。

御嶽山の中腹の御師の集落では、御師の家を訪ね、床の間の両脇を守護する「狼」を拝見した。
村の中ほどに樹齢千年の欅があり、注連縄が張られていた。
村を守護してきた神樹には、小鳥が集まり、ムササビの出入りする巣穴があった。
御師の末裔たちは、民宿の主、蕎麦屋や土産物屋の店主、神職などとしてこの村に残り、
伝統を継承し、支えていた。



御師の村を通り過ぎ、長い石段を登りきると、御嶽神社に着く。神社入り口の両脇を、
まるで獅子のような、立派な守護獣が守っていた。
これは、獅子でも狛犬でもなく「山犬=狼」なのである。
神社の参道や本殿などを守護する「狛犬」は、その起源を古代オリエントの獅子
に求めることができる。オリエントの王家を守護する獅子=ライオンは、
ギリシアに渡り天文の獅子座の思想と混交し、シルクロードを西進して中国に入り、
「唐獅子」となった。それが南島経由で北上したものが「シーサー=獅子舞」の系統で、
仏教と共に朝鮮半島経由で渡来したものが「高麗犬=こまいぬ」であったと推測されている。
しかしながら、日本にはライオンは存在しないので、身近な動物である猫や犬がモデルとなり、
愛らしい造形物「狛犬」が生まれた。狼信仰が盛んであった関東地方の山々では、
「山犬=狼」が狛犬に変わる守護獣として鎮座したのである。




(5)
武蔵御嶽神社・大口真神社が狼を祀る神社だった




武蔵御嶽神社の沿革をみておこう。資料は同神社発行のパンフレットより要約。
『武蔵御嶽神社(むさしみたけじんじゃ)は、東京都青梅市(武蔵国多磨郡)にある神社。武蔵御岳山の山上に鎮座する。櫛真智命などを祀る。中世以降、山岳信仰の霊場として発展し、
武蔵・相模に渡る信仰圏を獲得した。
祭神は「櫛真智命」「大己貴命」「少彦名命」「安閑天皇」「日本武尊」。
由緒崇神天皇7年(紀元前91年)の創建とされ、天平8年(736年)に行基が蔵王権現を勧請したといわれる。
文暦元年(1234年)に大中臣国兼が荒廃していた社殿を再興し、
以降は修験場として知られ、関東の幕府や武士から多くの武具が奉納される。
慶長10年(1605年)には大久保長安を普請奉行として本社が、
元禄13年(1700年)には弊殿と拝殿が建立された。
明治に入ると神仏分離によって、それまでの御嶽大権現から大麻止乃豆天神社に改称した。
これは当社が延喜式に載せられている「大麻止乃豆天神社」に比定されたためであるが、
同様に大麻止乃豆天神社であると比定される神社が他にもあったため
(稲城市大丸の大麻止乃豆乃天神社)、御嶽神社と改称した。
昭和27年(1952年)に現在の武蔵御嶽神社に改称した。』



武蔵御嶽神社の本社を守護する巨大な獅子のような「狼」(銅造)に迎えられて急な石段を上ると、
重厚な拝殿をもつ「本社」がある。拝殿の鴨居に獅子(これも狼かもしれない)の彫刻がある。
拝殿内に一対の木彫の「狼」がある。遠すぎてよく見ることができないが写実的でありながら、
愛らしさも併せ持っている。神社の由来にちなむ日本武尊と白狼の絵馬がある。





本殿裏の玉垣内には伊弉諾尊と伊弉冉尊を祭る 「二柱社」をはじめ、
国家神、土地神、氏神などを祭る種々の社殿がある。
本殿へ行く途中に 木花開耶毘売命、石長比売命、息長帯比売命を祭る産安社の性神「産安社」、
小さな「稲荷社」等がある。この日は気づかなかったが、
どこかに男具那峰へと続く「奥宮参道」があり、「奥宮」には日本武尊を祀るという。
これらの神社のなかに、銅造の「狼」や石造の「狼」が守護するものがある。
天瓊々杵命を祀る「皇御孫命社」の守護獣ははまるで豚のような猪であり、微笑ましい。
時代の新しいものは、威風堂々としているが、どことなく狼の実像からは離れているようで、
少し拍子抜けする思いもぬぐえない。



御嶽神社のもっとも奥まった位置、神明社の後方に瑞垣に囲まれて大口真神を祭る
「大口真神社(おおくちまがみ しゃ)」が鎮座し、御嶽信仰の古形を示している。
社殿内に御嶽神社の眷属である「大口真神=おイヌ様=狼」を祀り、
社殿後方は奥宮遥拝所となっていることから、それがわかる。
私たちは、ようやく旅の目的地にたどり着いたのである。



*神社正面と筆者、拝殿内の木彫狼、同絵馬の写真は石地まゆみ撮影


(6)
大口真神社を守り続けた「狼」の古形に出会った


狼(ニホンオオカミ)はかつて本州・四国・九州などにはかなり多くの分布がみられた。
体長82〜110センチメートル、尾長30センチメートル前後。「ヤマイヌ」とも呼ばれるが、
より原始的な種で、いわゆる「山犬・野犬」や人間に飼育される「犬」とは異なる。
四肢、耳介、吻(ふん)が短く、額が高まらない。体は灰褐色で背が黒く、目の周りに淡色斑(はん)がない。
頬(ほお)と四肢の内面は白色。シカを主食とし、時には人家近くに出没し、
牛や馬を襲ったり、旅人や杣人を襲うなどの人的被害もあったため、恐れられた。
1905年(明治38)に奈良県東吉野村の鷲家口(わしかぐち)で捕獲された若い雄を最後に絶滅したとみられる。
国内には剥製(はくせい)が3点、全身骨格が1点しか残っていない。
古記録、説話や伝承に語られる狼の話も多く、現在もしばしば目撃談があり、狼生存説も存在する。

九州の中央部・久住山を中心とした地域にも狼信仰の痕跡が残る。数年前のことになるが、
私は、この地方のものと伝えられる石造の「狼」を入手し、その年の「アートスペース繭」
の企画展に出品した。それは尾久彰三氏の目に止まり、氏の所蔵となって、
珠玉のコレクションが収蔵されている同氏の自宅の守護獣の位置を獲得したばかりか、
2010年に横浜のそごう美術館で開催された「観じる民藝」という同氏コレクションを展示した
展覧会にも出品され、さらに同名の著書(世界文化社)にも掲載された。
出世した狼族の一神というべきであろう。昨年、日本民藝館を退職された尾久さんは、
「愉快な骨董」「貧好きの骨董」などでも知られる収集家だが、私は、氏のご尽力により、
2004年に日本民藝館で「九州の民俗仮面展」を開催させていただくことができ、
220点の仮面を同館に展示するという幸運を得た。私にとっても、
九州の仮面たちにとっても恩人というべき先達である。



三峯神社を中心とする中部・関東山間部や奥多摩の武蔵御嶽神社などでは、
魔除けや憑き物落とし、獣害除けなどの霊験をもつ狼信仰が存在する。
鹿などの食害をひきおこす動物を主食とする狼が、農業や林業被害等を防ぐ役割を果たすと考えられ、
その組織力や強靭な生命力などが畏敬され、神聖視され、信仰の対象とされたのである。
「犬神」「大口真神(おおくちまかみ)」「おイヌ様」「山峰様」などの信仰名がある。



先述した「オオカミの護符」を著した小倉美恵子氏は、幼い頃に見た「おイヌ様=オオカミ」
の護符が現在も自宅周辺(川崎市)に点在することに気づき、調査を開始し、
武蔵御嶽神社と関東平野の深い結びつきや現代に生きる信仰などを記録した。
今回の旅を先導してくれた石地まゆみ君も、母親の介護のために
少女期を過ごした自宅(町田市)に戻り、俳人としてのキャリアを加えて
周辺を散策・探訪を始めたところ、農家の土蔵や野菜の無人販売所などに張られている
「おイヌ様のお札」が眼にとまり、小倉氏の著書に出会ったのである。川崎も町田も、
多摩川流域にひろがる旧・武蔵国である。幾つかの縁が、私を武蔵御嶽神社へと導いてくれ、
そして、御嶽神社の最奥部に鎮座する「大口真神社」へとたどりついたような気がする。



写真はオオカミの護符が張られた町田市の農家。白洲正子の旧居「武相荘」の近く。
当主は白洲次郎・正子夫妻がこの地へ来たとき、農業を教えた人のご子息らしい。石地まゆみ撮影。

大口真神社は、武蔵御嶽神社本殿の真裏にあり、最も高い位置(御岳山頂)に坐している。
社殿の両脇を石造の狼が守護している(前回紹介)。社殿は以下のようにその由緒を語る。
『日本武尊が東征の際、この御岳山から西北に進もうとされたとき、深山の邪神が
大きな白鹿と化して道を塞いだ。尊は山蒜(やまびる)で大鹿を退治したが、
そのとき山谷鳴動して雲霧が発生し道に迷われてしまう。そこへ、忽然と白狼が現れ、
西北へ尊の軍を導いた。尊は白狼に、「大口真神としてこの御岳山に留まり、
地を守れ」と仰せられ、以来、御嶽大神とともに「おいぬさま」と崇められ、関東一円の信仰を集めている。以来、魔除け・火難・盗難・病気・憑物など諸災厄の守護の神として霊験著しく、
この神符(オオカミの護符)を「お犬様」とあがめて、戸口に貼ったり、家の敷地内にお社を建立し、
家の守り神とする信仰が広まった。』
これをみれば、もともとこの山系に山岳信仰としての狼信仰があり、
それに日本武尊の東征説話が加わり、さらに密教・修験道・仏教等の要素が混交して
御嶽信仰が形成されたものであり、この大口真神社こそ、
御嶽信仰の古形を示すものであることがわかる。小ぶりではあるが重厚な造りの社殿を一周し、
その奥に聳える奥山を眺め、引き返しかけた時、石地君が、何かを発見したようで、急いで呼びに来た。
行ってみると、社殿の一番奥の、玉垣の端に一群の石塊がある。
壊れた石組みの一部のように見えたが、それは社殿が改築された時に
守護獣としての役目を終えて片付けられたまま、長い年月そこ放置されていた狼の「残欠」で、
それこそが、古い狼の石像であった。手足は折れ、顔も風化が進んでいたが、
私はこの狼たちの残像に出会ったことで満足した。石地君の俳人としての興味と
各地の神社廻りを続けている熱心さが、この山の「本体」に出会わせてくれたもののように思えた。



陽が西に傾き、森を金紫色の光線が照らした。晩秋の山は、静かな時間に包まれていた。
大口真神社を後に、山を降りかけた時、ぱさり、と草藪を踏むような音がして、
同時に再び私を呼ぶ声が聞こえた。それは石地君の声だったのか、あるいは、
この山の精霊神の声だったのか。振り向くと、西日の差し込む小さな塚の草むらの中に、
一体の石の狼がちょこんと座していた。その塚は、大口真神社の右前方を守護する位置にあり、
その奥には、広大な多摩・秩父の山へと続く小道が見えていた。
塚には「御嶽講」の参拝者たちが寄進した古い時代の板碑が立ち並んでいた。
これこそ、社殿裏に置き忘れられた残欠とは違う、現役の守護獣としての「狼」であり、
御嶽の「おイヌ様」であった。




(7)
武蔵御嶽神社に伝わる古代の呪法「太占(ふとまに)」




武蔵御嶽神社・大口真神社(おおくちまがみしゃ)を守護する位置にある小さな塚。
その塚の中ほどの草むらの中に座す古い石造の狼は、近世に作られた他の立派な狼像よりも美しく、
狼そのものの持つ野生や神性を表していると私は思った。おそらく、この像が造られたころは、
まだ身近に狼がいて、作者も、狼を信仰する山人や里人もその実相を掴み得たのだろう。
西日を受け、遠くを見つめるかのような狼の足元に、原型も定かではなくなった石塊があった。
それが、かつてはこの狼と一対をなし、大口真神社を守護し続けた「吽形」の狼であったのだろう。
容赦ない風化にさらされながら、なお生気を放つこの小像こそ、日本の狼信仰の原型を伝えるオブジェである。




大口真神社に隣接して、「太占(ふとまに)祭場」がある。
ここは、今も鹿骨を用いた古式の呪法「太占」を伝える場であった。

 

太占(ふとまに)とは、獣骨を用いた卜占である。起源は中国大陸に求められる。
殷墟(古代中国殷時代の遺跡)からは5000点に及ぶ甲骨(鹿・牛の肩甲骨、亀の甲羅)が発見され、
それが古代の卜占に使われたこと、読解可能であることなどから、甲骨文字すなわち
「漢字」の起源であることなどが確認された。
この呪法は古代日本にも伝わり、主に鹿の骨を用いた卜占「鹿占(しかうら)」が行なわれた。
現在、その太占を伝えるのは、東京都の武蔵御嶽神社、群馬県の貫前神社の二例のみである。

(8)
太占は農業カレンダー





武蔵御嶽神社の社務所には、「おイヌ様のお札(オオカミの護符)」や種々のお守り、
おみくじなどとともに、その年の「太占(ふとまに)」の結果表と鹿の肩甲骨が掲示されている。
これが、毎年正月3日に行なわれる「太占祭」の結果であり、「オオカミの護符」とともに
御嶽の御師(おし)によって、関東一円に配布されたものである。
武蔵御嶽神社では、

この太占は、鹿の肩甲骨を斎火で焙り、できた割れ目の位置でその年の農作物の出来、
不出来を占うもので、早稲・おくて・あわ・きび・ジャガイモ・人参など25種類が占われる。
豊作は十として、十段階に一まで作物ごとに占われた結果が判定されるのである。
この太占図に基づき、その年の天候を見極め、作物の植え付け、手入れ、
収穫の時期などを判断するのである。

古代中国で発生した卜占は、獣骨を焼き、その時に出来たひび割れが描き出す文様によって、
天候・農事・軍事などを占った。卜占を行なうのは、「王」であった。
神の声を聴き、神の意思を伝えるシャーマンこそが国の「王」だったのである。
王のもっとも重要な役割は、天文を観測し、それに基づいて天候を占い、農事を判断することであった。
古代国家においては、農事と軍事は一体であった。すなわち、食料の生産と戦争は不可分の関係にあり、
農事を無視して軍事を起こせば食料の欠乏によって敗戦に至り、王は、断罪されたのである。
生贄として神に捧げられた例さえみられる。後に、王の代役としてのシャーマン(呪者・神職など)が登場した。
武蔵御嶽神社の太占は、古代の呪法を引き継ぐ儀礼であり、今に生きる農業カレンダーであった。


武蔵御嶽神社の太占表。発行年不明。

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(SINCE.1999.5.20)