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このコーナーの文は、加筆・再構成し
「精霊神の原郷へ」一冊にまとめられました

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 忍者と仮面

 鬼に会う旅

 荒神問答

米良の宿神

  道化

  翁面


 このコーナーの文は加筆再構成され
「空想の森の旅人」
に収録されています

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エッセイ


自由旅


漂泊する
仮面



 神楽セリ歌採集の旅から

 神楽セリ歌とは、夜神楽が舞われる御神屋の両端に陣取った
観客の間で歌われる「掛け合い歌」である。
神楽の音楽には、太鼓・笛・摺り鉦などによる「神楽囃子」、神を招き神楽の由縁や神意等を語る「唱教」と「問答」、賀詞(神歌)を歌いながら舞う
「神楽歌」、観客がはやし立てるこの「セリ歌」がある。
神楽囃子、唱教・問答、神楽歌が舞人(=祝子・奉仕者・社人などと
呼ばれる神楽の遂行者)によって奏されるのに対し、
セリ歌は観客の音楽であり民衆歌である。
このセリ歌は、神楽の主祭神が降臨した後、夜半を過ぎ、
神楽が佳境に入る頃、高く、美しい声で歌われる。
御神屋の向こうとこちらから、セリ歌が響くと、神楽の場が一気に華やぎ、
一層、賑わいを増すのである。
古くは、男組と女組に分かれ、掛け合いで歌われたという。
アジアに広く分布する「歌垣」の名残をとどめるこのセリ歌も
近年は歌われる機会が少なくなり、消滅が危惧されている。
ミュージシャンであり、全国の神楽を取材している神楽研究家でもある
三上敏視氏からの、「今のうちに採集しておきたい」
という申し出を好機とし、高千穂・椎葉・諸塚・米良と巡る
取材の旅に案内人として同行することとした。毎年、神楽に通い、
交流を深めている地域の方々に三上さんが連絡をとり、
私からも協力をお願いした。

 
神楽セリ歌採集の旅から
(1)
高須千穂・秋元


写真/高千穂・秋元風景

九州の西方を北上中の台風が、東シナ海の真ん中あたりで急に進路を東に変え、北部九州を横断する
進路を取った。夜半には天草・有明方面に上陸し、一気に速度を上げて四国へと抜けるという予報
だったが、生温かい風が、ゆるく吹き、霧雨のような細かい雨が断続的に降るだけだった。
その細雨にけぶる闇に描き出された影絵のように、一人、二人と神楽の伝承者たちが集まって来た。
秋元地区は、高千穂盆地の西方、諸塚山麓に位置する静かな集落である。高千穂神楽の古風を伝えるといわれる秋元神楽を伝える。清澄な音楽と神楽歌。厳粛に降臨する神々。神楽宿に集う人々。
神楽が後半にさしかかるころ、村の女性たちによってセリ歌が歌われ、古老がそれに和す。
神楽終盤になると、女性たちが肩を組み円陣を作ってセリ歌を歌いながらはやし立てる。
秋元神楽には、消えかけているセリ歌が古い形を保ちながら残されているのである。
この夜は、秋元集落の東方の高台にある農家民泊「蔵守(くらもり)」にお世話になった。
亭主は飯干金光氏。豪放快活でありながら繊細な気配りも忘れない金光さんは、村の内外の
人たちから慕われ、今年から秋元神楽の保存会長を務めることになった。蔵守には牛小屋を改装した
「ギャラリーくらんでら(蔵之平)」も隣接している。このギャラリーの開設時には、「秋元エコミュージアム」
のアートディレクターとして私も手伝いをさせていただいた。今宵は、その秋元エコミュージアムの
主宰者・飯干敦志さんも参加してくださり、囲炉裏を囲んだ。
酒がうまい。



写真左/農家民泊「蔵守」
写真右/ギャラリー「くらんでら」


 今宵さー 夜神楽を せろとてきたが サイナー
 せらにゃそこのけ わしがせる ノンノコサイサイ

高千穂の神楽セリ歌は「のんのこ節」と呼ばれ、高千穂地方全域とその周辺部に分布する。
秋元のセリ歌の名手・飯干貴美子さんが歌ってくださり、金光さんが空き箱を利用した即席の
太鼓で拍子をとり、それに皆が和した。

 神楽太鼓と 水唐臼は サイナー 
 いつもドンドコなるばかり ノンノコサイサイ

 神楽せるより 川せきなされ サイナー
 川にゃ思いの 鯉(恋)がすむ ノンノコサイサイ

 粋な誰かさんの 神楽舞う姿 サイナー
 枕屏風に 描かれたい ノンノコサイサイ

 枕屏風に絵を描くよりも サイナー 
 枕並べて寝てみたい ノンノコサイサイ

 今宵サ ヨバイどんは棚から落ちて サイナー
 猫の真似して ニャァと鳴く ノンノコサイサイ

昔、神楽といえば一年に一度の「村のまつり」であり、数少ない男女の接触機会でもあった。
それを楽しみに遠く山を越えてくる客も多かったという。また、村の中でも、この夜かぎりは無礼講。
許されぬ恋の成就の日であり、女の家に忍び込む「よばい」の夜でもあった。そしてこの夜に授かった子は「神楽子=神の子」として村で大切に育てられたという。他所からの血の導入を喜ぶ「貴種願望」に裏打ちされた風習は、他の地域と断絶した山深い村の血族間の結婚による「血の濃度」の忌避、家同士の格差や
身分制度などによる恋愛の限界などから開放される唯一の機会であった。
そしてその夜は、多くの出会いと別れの物語が生まれる、切ない一夜でもあった。



写真/ギャラリーくらんでらの囲炉裏を囲んで

神楽の舞人(高千穂では奉仕者殿=ほしゃどん。他の地域では祝子=怜人=社人などと呼ばれる)は、
村の女性たちの憧れの的でであった。またほしゃどんに選ばれた若者も、恋人や意中の人に晴れ姿を見てもらうために、師匠のもとに通い、稽古を重ねた。そして神楽本番の夜。鍛えた舞い姿を見てもらうはずの女の子の姿が客席に見えぬ。なんと、その娘は、他の男とともにすでに藪に消えていたのである。
男は、先ほどまで掛け合いでセリ歌を歌っていたライバルであった。
古くは、神楽は家の長男が後継者であり、神楽を伝承する家も決まっていた。神楽の伝承者になれない次男・三男や一般の家の男どもは、裏方として祭りを支えることとセリ歌を歌うことで、神楽の参加を許されたのである。練達の裏方仕事をこなし、美しい歌声を響かせることも、異性に対するアピールであった。
よばいの失敗談や隠れ忍んだ藁小積の中の暖かさ、月夜の森の明るさと静けさなど、
囲炉裏の周りは艶っぽい話で盛り上がり、貴美子さんの歌声が一層響いた。
このころ、台風は、温帯低気圧に変わり、高千穂の上空を通過した模様であった。



神楽セリ歌採集の旅から
(2)
椎葉・嶽之枝尾


椎葉・嶽之枝尾風景


早朝、高千穂・秋本を出発し、椎葉・嶽之枝尾に向かった。台風は夜のうちに通過して、
椎葉の山脈からは朝霧が立ち昇っていた。
それでも、嶽之枝尾集落の手前で崖崩れがあり、迂回路は椎葉ダムの堰堤の上を通る道であった。台風の余波は、遠来の三上氏に思いがけない絶景を提供してくれたのである。九州でも有数の規模を誇る椎葉ダムの上からの眺めは雄大で、堰堤から下を見下ろすと、目が眩み、息が詰まるほどの高さである。
嶽之枝尾地区は、この椎葉ダム湖の西岸に小規模の集落が点在する地域で、中心部に嶽之枝尾神社がある。神社の近くに、かつて柳田国男が滞在した旧・中瀬家がある。嶽之枝尾神楽は、通常は神社で開催されるが、2007年はこの中瀬家で開催された。その時のことを「民俗学百年と神楽宿」というタイトルで西日本新聞に書いたので、以下に採録する。椎葉神楽のセリ歌の美しさに、思わず涙ぐんだ夜であった。



写真左/嶽之枝尾神楽・大宝の注連
写真右/嶽之枝尾神楽の舞


「民俗学百年と神楽宿」(西日本新聞/2007年12月22日付記事)
1908(明治41)年、日本民俗学の創始者、柳田国男は、山深い椎葉の里を訪ねた。
椎葉の焼き畑跡地に自生する山茶やシイタケ、コンニャクの栽培の可能性を調査するためであった。
当時の村長・中瀬淳(あつし)に迎えられた柳田は、ここで中瀬の語る猪狩りの様子と大河内地区・椎葉徳蔵家に伝わる「狩之巻」に出会う。帰郷した柳田は、中瀬あてに手紙を送り、調査を依頼。中瀬はこれに応え、詳細な資料を提供する。翌年、柳田は「後狩詞記(のちのかりことばのき)」50部を出版。
続けて「遠野物語」を出し、ここに、「日本民俗学」が出発したのである。
柳田国男が椎葉を訪ねた日から数えて、今年(2007年)は百年目にあたる。
その間、民俗学は飛躍的な発展を遂げ、日本は近代化・繁栄への道を突き進んだが、皮肉なことに民俗学が記録した貴重な習俗や風景、日本人の心象などは激変した。都市には記録すべき「民俗」はなく、村は消滅の危機に瀕している。けれども、ここ椎葉に関するかぎり、ある程度の人口の減少、過疎化、祭りの消滅などは認められるが、大筋では柳田が訪ねたころの面影と村の骨格を保っているといえる。
いまだに20座を越える神楽座が存在し、集落ごとに神楽が舞われ、猪が神前に供えられる。

「後狩詞記」で柳田は、「土地の名目」「狩ことば」「狩の作法」「いろいろの口伝」「狩之巻」を記したが、現在もその習俗は残されている。私は前年の大河内・大藪地区の神楽で、一晩中、鹿肉と猪肉の料理を振る舞われたし、神楽そのものが、猪の肉を切り分けて神にささげる「板起こし」から始まるのである。
さて、この年の嶽之枝尾神楽は、旧・中瀬淳家で開催された。諸般の事情によって空家になっていたこの家を買い取り、現在の居住者となっている綾部正哉氏の、つよい希望によるものであった。近年、嶽之枝尾神社で開催されていた神楽の15年ぶりの民家(神楽宿)での開催であった。綾部氏は、
6歳か7歳(現在の小学1年生)のころ、敗戦後の旧・満州で両親と離れ離れになた。
一緒に残された弟はまもなく死亡したが、正哉少年は、汽車を乗り継ぎ、
船の荷物の間に隠れて帰国したという苦難のエピソードを持つ人である。
成人後は教育の道に進み、宮崎県の教育調査監などを勤めた後、退職し、椎葉を
永住の地に選んだのである。民俗学発祥の家での神楽は綾部氏と村人の悲願でもあった。

体調を崩して入院中であった綾部氏は、神楽の期間中だけの外泊を許されて帰宅した。氏を慕う村人はそれを温かく迎えた。神社での神事の後、神楽の一行が柳田国男が宿泊した記念すべき家に到着した。12本の注連柱(大宝の注連)が立てられ、この神楽独特の演目である「宿借」「注連引き鬼神」が出て、神事舞の後、少年少女による「剣(つるぎ)舞」が始まった時、神楽宿の一角から「神楽セリ歌」が聞こえた。それに数人が加わり、美しい合唱となった。それは天の声とも地の音楽とも形容すべき美しい旋律であった。歌っているのは、一週間も前から料理を仕込み、裏方として祭りを支え続けてきた村の女性たちであった。椎葉民謡の真髄がここにあった。涙を流しながらそれを聞き、舞を見つめる拝観者と村人、
綾部氏の姿が、古いガラス絵の一齣のように、明滅した。


嶽之枝尾神楽セリ歌を歌う人たち・神楽宿にて


さて、椎葉ダムを越えて嶽之枝尾地区にたどり着いた日は選挙戦の真っ最中で、
村には鉢巻を締めた男たちが集まっていた。平家の落人を迎え入れた山人たちの末裔は、
古風な戦支度に見えて勇ましかった。その男衆が選挙カーとともに去り、静かになった
村里の小さな集会所で、女性たちが歌ってくれた
神楽セリ歌もまた、哀調を帯びて美しかった。

 こんな寒いのに笹山越えて
 笹の露やら涙やら

 今夜せかずばいつせこか
 明日の晩からかごの鳥

 かごの鳥でも時節を待てば
 かごの破れる節もある

 思うておれどもまだ言うちゃみらぬ
 逢うて一度は言うてみたい

 わしが若い時は木の根が枕
 あえた木の葉を御座として

 今宵別れて又いつ逢おか
 明けて三月駒茶時

歌い手は、右田美佐子さん、椎葉アスエさん、椎葉浪子さんの三人。浪子さんが、私が中瀬家で涙した美声の持ち主であった。神楽セリ歌は子供の頃から聞きなじんでおり、練習なしで歌えるとのこと。最初は少し照れて第一声がなかなか出なかったが、ひとたび歌い始めると、そこは民謡の宝庫・椎葉の女衆である。次々に本格的なセリ歌を歌ってくださった。切々と流れる歌声が、椎葉の山に響いた。


この日集まってくださった皆さん

神楽セリ歌採集の旅
(3)
諸塚・南川



宿は、諸塚山系の山々に連なる山の尾根近くにある小さな村の一軒の古民家を改装したもので、
風趣に富みかつ快適であった。重厚な山脈を流れる霧が、時折、この村を包んで、
一切の景色を消去した。霧の中に、田の畦の草を刈る農夫や、村から棚田へと行く道、
その道に沿って植えられた栗や梨の大木、小さな野菜畑などが浮かび上がった。
縁側に寝ころび、天空の村の仙人になったような気分でその景色を眺めているうちに、とろとろと眠った。  
この日、椎葉・嶽之枝尾神楽のセリ歌の取材が午前中に終わったので、
早めに諸塚入りし、投宿したのである。

隣室で、三上さんが缶ビールを片手に、これまでに取材した高千穂・秋元神楽と椎葉・嶽之枝尾神楽のセリ歌のビデオを再生しており、その音を聞きながら寝入ったので、眠りは浅く、その浅い眠りの中で、夢を見た。夢は、夜神楽の場面と、山上の村で行われる霧の中での祭りの情景とが混交したもので、神楽囃子や神楽歌に混じって、セリ歌が聞こえた。心地よい、仙境の真昼の夢であった。

翌朝(取材三日目の朝)、諸塚の谷に入り、ヤマメを釣った。数年前の台風で甚大な被害を出した川は回復期に入っており、先行者があったもののまずまずの釣果が得られた。
午後、南川神楽の皆さんが集まって下さり、いよいよセリ歌の取材になったが、ここでは、当初、高千穂や椎葉のような成果は得られなかった。セリ歌が歌われなくなって久しく、神楽の伝承者は、神楽そのものや神楽歌を覚えることに集中し、自分たちが「セられる=はやしたてられる」立場なので、セリ歌をよく覚えてはいない、というのである。一同、困り果てた末に電話で呼び出された年輩の女性(毎年、
神楽の場で見かける人である。90歳を超えていると思われる)も、真っ昼間の、
このような改まった場で歌うことへの抵抗感がつよく、なかなか歌が出なかった。       

私は意を決して、
ーばあちゃん、僕も今度から歌うつもりで練習を始めるから、ちょっと教えてよ。
と、言いながら、たどたどしい節回しでせり歌を口ずさんでみた。

 今宵サー 夜神楽を
 せろとて来たが サイナー
 
前夜、高千穂・秋元で皆と一緒に歌ったノンノコ節の歌い出しの一節である。
すると、山の媼(おうな)は、すぐに、小声ではあったが、

 せらにゃそこのけ
 わしがせる ノンノコサイ サイ                       

と、続けてくれたのである。
これで、一座の緊張がほぐれ、次々に歌が出た。伝承者の皆さんも、記憶が
よみがえったとみえて、それに和した。そして、村の女性たちにも呼びかけて、
来年の夜神楽の晩には、皆で歌おうではないか、という約束にまで発展したのである。
上々の首尾に三上さんも大喜びであった。私も、来年までにセリ歌を覚えて、歌うことにしよう。

ところで、諸塚神楽には毎年、三十三番を奉納する「南川神楽」と「戸下神楽」があり、七年に一度の大神楽を奉納する「桂神楽」があるが、2011年の桂神楽では、甲斐キタさんが、正調のせり歌を歌っておられた。高齢のキタさんのせり歌を聞くのは、これが最後の機会だろう、と言われていた。その貴重な映像記録が取材仲間の伊藤美絵子さんから寄せられた。これをもとに練習を重ねれば、諸塚神楽のセリ歌の復活・伝承は可能である。諸塚神楽のセリ歌は、高千穂のノンノコ節が主調で、時に、椎葉調が混じる。古代から中世へかけての諸塚は「高千穂郷」の一地区であり、椎葉とは山続きであることから、
両地域の要素が混交しているものと考えられる。
―昔は、高千穂からも椎葉からも、山越えで沢山の客が来たものじゃ。
と古老は口をそろえて言っていた。



以下に、甲斐キタさんが書き残した諸塚神楽のせり歌を記す。 

 こよさ夜神楽は 十二の干支で サイナー
 飾りたてたる 神かぐら ノンノコサイサイ

 こよさ夜神楽にゃ せろとて来たが サイナー
 せらにゃそこのけ わしがせる ノンノコサイサイ

 月は三夜の 三日月様よ サイナー
 夜にちらりと 出たばかり ノンノコサイサイ

 娘ざかりに 引かれぬ袖は サイナー
 一生一代 引かれまい ノンノコサイサイ

 春は桜か 秋にはもみじ サイナー
 おいでくだされ 神楽見に ノンノコサイサイ

 神楽太鼓に ついさそわれて サイナー
 四方(よも)の神々 舞い遊ぶ ノンノコサイサイ

 思うちゃおれども まだ言うちゃみらぬ サイナー
 下手のたるやで えもいえぬ ノンノコサイサイ

 傘を忘れた 峠の茶屋を サイナー
 曇るたんびに 思い出す ノンノコサイサイ

 秋の花かよ 今宵の客は サイナー
 人に歌わせ きくはがり ノンノコサイサイ

 おもて来たかよ うらから来たか サイナー
 わたしゃうらから 思う手て来た ノンノコサイサイ 

 今舞うほしゃこの 姿の夜さ サイナー
 何処の子じゃろか 孫じゃろか ノンノコサイサイ

 様よ話そうよ 小松の下で サイナー
 松の葉のように こまやかに ノンノコサイサイ

 思うて通えば 千里の一里 サイナー
 会わず帰れば 元千里 ノンノコサイサイ

 なんぼ姑が 鬼でも蛇でも サイナー
 ほれた主とは 別りゃせぬ ノンノコサイサイ

 主と二人で 笹山行けば サイナー
 笹の露やら涙やら ノンノコサイサイ


神楽セリ歌採集の旅から
(4)
ビデオ神楽ジョッキー

今回の「神楽セリ歌採集の旅」を企画し、呼びかけてくださった三上敏視氏をあらためて紹介しておこう。


ビデオ神楽ジョッキーでの三上敏視氏

日本のルーツミュージックを探す旅の過程で「神楽」に出会い、全国のあらゆる場所で神楽と祭りを記録し続けているミュージシャン・三上敏視<みかみとしみ>氏は、その膨大なフィールドワークの一端を、「神楽ジョッキー」という手法で公開し、神楽の伝承地・伝承者と研究者・鑑賞者を結ぶ交流の場を創出している。ビデオによる映像と音楽、三上氏の軽妙な語りなどにより、美しい日本の風土を彩る神楽と祭り、現地の人々の様子や神楽の熱気、面白さ、社会における重要性などが描きだされてゆく。
酒盃を手にゆるりと楽しみ、語り合いながら、神楽を追体験する・・・それが「三上敏視の神楽ジョッキー」である。

私(筆者・高見)は、三上さんとは伊豆高原で開催された「第一回地方文化交流会」で知り合い、以後「猿田彦大神フォーラム」でもご一緒した仲だから、20年以上の付き合いになる。九州の神楽を訪ねて来られた折にもしばしば現地で合流した。東京の居酒屋で催されたビデオ神楽ジョッキーでは、深夜まで酒を酌み交わしながら神楽談義に時を忘れたものだ。
今回の取材前に分かったことが一つある。それは、この神楽セリ歌が公式に記録されたものがほとんどないということ、そして、神楽の伝承者(舞人=祝子・怜人・社人・奉仕者などと呼ばれる)が歌う神歌・唱教・問答以外の、村人や観客、ことに女性が参加者となって歌われる「セリ歌」は全国的には分布例がきわめて少なく、貴重な事例であること等でる。「神楽セリ歌」とは神楽が佳境に入る頃、女組と男組が別れて、御神屋の向こうとこちらで、歌(恋愛歌が多く中には軽妙な性表現も。)の掛け合い形式で歌われる歌のことである。アジアに分布する「歌垣」の名残をとどめるこのセリ歌も、高齢化とともに歌い手が減り、消滅が危惧されているのである。今回の旅は、そのことを確認し、現地の皆さんと情報を交換し、伝承と保存について語り合う機会ともなった。


会場となった「ひむか村の宝箱」と店内

高千穂・椎葉・諸塚・米良と巡る神楽セリ歌採集の旅では、一日だけ日程が空いた日があったので「ビデオ神楽ジョッキー」を組み込んだ。この企画は立ち上げへ向けて準備が進められている「MIYAZAKI神楽座」の第一回企画(若者を中心に計画されているこの会についてはいずれ詳細に報告)として開催された。
会場は、宮崎市平和台公園内のギャラリー&レストラン「ひむか村の宝箱」。集まった若者たちを前に、全国の神楽の分布や特徴的な神楽の紹介があり、宮崎の神楽との比較も行なわれたので、集まった若者たちや若い神楽の伝承者たちに感銘を与えた。三上さんは、ミュージシャンとして神楽と新しい日本の音楽との接点についても研究を重ねており、ご自身が採集した各地の神楽の音楽を自分の音楽表現として作詞・作曲・公演活動も展開している。その一端を、古式の神楽鈴を伴奏に使った「神歌」として披露してくださり、共感を集めた。今後の神楽の伝承・公演活動などにも示唆を与えるものであった。



ビデオ神楽ジョッキー会場風景

◆三上敏視プロフィール
ミュージシャン、神楽・伝承音楽研究家。
日本のルーツ音楽を探る中で神楽に出会い全国の里神楽
をフィールドワーク中。細野晴臣&環太平洋モンゴロイド
ユニットメンバー、及び東京シャイネスメンバー。
01年別冊太陽『お神楽』を共同編集。09年『神楽と出会
う本』(アルテスパブリッシング)を執筆、発行。
多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。猿田彦大神
フォーラム世話人。


神楽セリ歌採集の旅から
(6)
西米良・村所①


村所八幡神社と神楽の奉納

西米良村の中心地・村所(むらしょ)は、東方から椎葉の山脈を源流とする川、西方は熊本県との県境にそびえる市房山を源流とする川が合流する地点にあたる。村所で合流した川は、大河・一ツ瀬川の本流となって急峻な崖を洗い、山谷を縫って流れ下り、日向灘・太平洋へと注ぐ。旧街道もこの川に沿っていることから、村所は古くから文物の集散地として栄え、今もなお山中の小都市の風情を残している。
瀬音が山と山に響き、山気は、藍色に風景を染める。村所神楽は、
この町を見下ろす高台にある村所八幡神社に伝わっている。

村所八幡神社は、南北朝時代、米良に足跡を残した後醍醐天皇の第十一皇子・懐良(かねなが)親王を主祭神「大王様」として祀る。懐良親王は、後醍醐天皇が足利尊氏に敗れ、吉野に逃れて「南朝」を開いた後、南朝の再興を期し、征西の宮(征西将軍)として九州へと派遣された。親王は、二十年近く九州を転戦し、肥後の豪族・菊池氏の支援により大宰府を押さえ、一時は九州を平定するが、足利幕府・北朝の連合軍に破れて、菊地の一族とともに米良へ入山したと伝えられる。米良では、親王没後の文明3年(1471)にすでに
建立されている「御川神社」に、大王宮を合祭した「大王宮御川神社」にお祭りし、
鎮魂・供養の神楽を奉納、これが米良系神楽の起源と伝える。

村所八幡神社には、懐良親王の子・宗良親王、米良の領主・米良重鑑(めらしげかね)等も合祀され、神楽には、「大王様」をはじめとして、「爺様」、「八幡様」などが次々と登場する。これらの南朝にかかわる神々の登場する神楽は神事性のつよい「神神楽(かみかぐら)」と呼ばれ、後半部は「民神楽(みんかぐら)」と呼ばれて、神楽セリ歌が歌われたり、神庭で観客が社人を真似て即興の神楽を舞い始めたりしてにぎわうのである。




写真上/村所神楽「大王様」
写真下/村所神楽「御手洗様」の降臨




中武雅周先生のお宅で

この夜、台風の影響で増水した一ツ瀬川は、川幅一杯に濁流が渦巻き、轟々と音立てて流れ下っていた。
川音を聞きながら、村所神楽の長老・中武雅周(まさちか)翁のお宅を訪ねた。御年92歳になられる雅周先生は、すでに神楽の第一線は退いておられるが、雅周先生の厳しい指導を受けて育った若者たちが現在の村所神楽を背負う存在となっており、今も、折にふれ、翁を慕って集まってくるのである。この日は、太鼓・浜砂亨さん、笛・中武浩二さんの二人に、村の若い女性三人組が集まってくれた。若者たちは、すでに「神楽セリ歌」の練習を重ねてきていた。


 米良の山すそ 静かに暮れて
 宇佐の社にノー 灯がともる

 祭り太鼓に ひかれて行けば
 里の娘もノー 晴れ姿

 あの子良い娘だ わし見て笑うた
 あの子育てたノー 親見たい

 鶏は鳴いても まだ夜は夜中 
 心静かにノー 舞わしゃればよ

 神楽だせだせ 神楽だせ
 神楽出さなきゃノー 嫁女出せ


 彼岸桜の 若葉ももえて
 米良の川風ノー 身にしみる

太鼓と笛に合わせて歌われる若い娘さんたちのセリ歌は、明るく、美しく、米良の山に響いた。この歌が、再び村所神楽で歌われるよう、村の女性たちに呼びかける予定であるという。神楽の日が楽しみなことだ。


村の女性たちと中武正親先生(右)

以下に雅周先生がまとめてくださった「米良の神楽囃子」という小文があるので概要を転載させていただく。

「米良の神楽囃子」
米良の神楽では、夜食前を「神神楽(かみかぐら)」といい、この間は囃子や酒酔いの狼藉は禁じられている。
米良神楽の神楽囃子は神楽セリ歌とは異なり、笛や太鼓と同じように、一定のリズムを担当する参詣人の音楽であり、囃子を引っさげてのお祭りへの参加である。
「囃子とは元来、能・歌舞伎・長唄・民俗芸能など各種の芸能で拍子をとり、または情緒を添えるために伴奏する音楽に、笛・太鼓・三味線・鉦などの楽器を用いる」(広辞苑)。したがって米良神楽の神楽囃子には、笛・太鼓・楽板・手拍子の他に囃子歌があることになる。
囃子は笛や太鼓の調子に合い、神楽のリズムに合うように歌わなければならない。夜食を過ぎると待ってましたとばかりに神楽囃子が祭り場を賑わしてくれる。これからの神楽はテンポも速くなり、舞のリズムに合わせる囃子もまた良いものである。時々即興の文句も登場して笑いを誘い、眠気ほ覚ましてくれる。
神楽場の正面を「御神屋(みこうや)」と呼んでいるが、この正面に注連が立ち、金銀・五色の御幣が飾られる。この場所を中心に、東西にわかれた参詣人が、交互に囃子を出し、男の声、女の声が調和してなごやかな中になんともいえないゆかしさがあったものだ。また、三方囃子といって、東方・西方・神楽やどの家の中と三つの組が交互に囃したてて祭りを一層盛り上げたものである。
昔は囃子で恋を語り、囃子でよろこびを歌い、また哀しみや苦しみを忘れ、明るい明日への望みを託すなど、多くの参詣人の心がこめられて、まことに情緒深いものであった。


神楽セリ歌採集の旅から
(7)
西米良・村所②

西米良村・村所神楽のセリ歌採集から帰った三日後、中武雅周先生から手紙が届いた。
それは、雅周先生が、村所神楽のセリ歌を記憶に基づいて整理し、一部作詞し、再編集したものである。
ここに、神楽セリ歌復元の手法が提示されたと思われるので以下に記録する。
()内の解説は高見。

村所神楽「神楽囃子」
 
    <1>

 一山・二山・三山越え 懐良(かねなが)大王 ノー 旅の跡
  (村所神楽は、南朝の王子・懐良親王を主祭神・大王様として祭る) 

 笈(おい)を背負うて 山々越えて 宿神(しゅくじん)大王 ノー 旅姿
  (宿神とは土地を守護する自然神。星宿神とも伝えられる)

 夜半に聞こえる 稲荷の声に 大王この地を ノー 安住の宿
  (懐良親王米良入山を迎えたのは、土地神である稲荷神であった)

 米良の田の元 稲穂の波に 大王微笑み ノー 詩(うた)を詠む
  (米良の地名の起源は「米の良い所」という)

 華の熊本 恋しゅてならぬ 植えた木もありゃ ノー 子等もある
  (南朝方支えた肥後菊池氏の一族もまた米良に落ち延びた。望郷の思いがつのる)

 米良の山すそ 静かに暮れて 宇佐の社に ノー 火が灯る
  (当初大王宮として建立された村所八幡神社は後に宇佐八幡神を勧請し現在にいたる)

 西に寄り添う 二つの星は 命(いのち)すさのおに 稲田姫
  (スサノオノミコト伝説が背景に)

    <2>

 風にかすむは 祭りの笛か 遠い昔が ノー 懐かしや

 祭り太鼓に 引かれて行けば 里の娘も ノー晴れ姿

 あの子良い娘だ わし見て笑うた あの娘育てた ノー 親見たい

 鶏は鳴いても まだ夜は夜中 心静かに ノー 舞わしゃればよ

 ぬしと別れて 松原行けば 松のしずくや ノー 涙やら

 きれたきれたよ 歌の音がきれた 腐れ縄よりゃ ノー まだきれた

 囲い山陰 若葉の香り 娘生まれた ノー 願ほどき

 彼岸桜の 若葉も燃えて 米良の川風 ノー 身にしみる


神楽セリ歌採集の旅から
(8)
神楽セリ歌「採詞」による再編集の試み

古い資料を整理していたら、20年以上前に記録した「神楽セリ歌」のメモが出てきた。
「椎葉神楽」や「米良山系の神楽」などを訪ね歩いていたころのもので、椎葉の「栂尾神楽」「尾手納神楽」、米良の「村所神楽」「銀鏡神楽」「尾八重神楽」「中之又神楽」などのスケッチの中に紛れ込んだまま、二十数年の時が経過していたのである。当時は、まだ、どこの神楽にも名手といわれる歌い手がいて、美しい声で歌われるセリ歌を聞かせてくれていたものだが、わずか四半世紀ほどの間に、
消滅が危惧されるところまで、事態は進行していたのである。
そこで、今回の取材旅行で入手した資料と併せて、「再編集」を試みることにした。かつて、神楽セリ歌の歌詞には、一連の「物語性」があったものだが、次第に即興で歌われる機会が多くなり、途切れ途切れに歌われることで分断されて一つの歌詞が単独の歌として歌われるようになり、連続性が失われたもののようである。このことを気づかせてくれたのは、椎葉・嶽之枝尾神楽の椎葉浪子さんの歌と、
西米良・村所神楽の長老、中武雅周先生の資料であった。




以下は高見の採詞による再編集である。メロディーの基本を椎葉・米良調とするが歌詞はいずれも七五調であり高千穂調でも歌われるものである。歌詞は地域ごとに、あるいは神楽ごとに微妙な違いがある。伝承の経路や起源、歌い手の独創なども混合すると思われるので、そのことを考慮しながら再編集した。
*注は高見による解説。





   ☆
 
 朝も寒いのに 笹山越えて 笹の露ら 涙やら 

 峠越えれば 故郷の村よ 祭り囃子の 響く頃

 風のそよぎか 神楽の笛か いとしあの娘の 呼ぶ声か

 
  *神楽の季節が巡ってきた。故郷の村へ向かって、山越えの道を歩く若者。
   そこは、愛しい恋人の待つところ。

 逢いに来たのに なぜ出て逢わぬ 出ては歌えぬ 籠の鳥

 籠の鳥でも 時節を待てば 籠の破れる節(ふし)もあろ

  *幼馴染の恋人同士でも、すぐには逢えぬ村のしきたり、古い家の慣習。
   けれども、祭りが始まれば、親の目こぼしもあろう。

 思うちゃおれども まだ言うちゃおらぬ 思い焦がれて 待つばかり
 
 思うお方の恋文なれば 八重に畳んで 袖の中

  *切ない乙女心を秘めて祭りの場へと急ぐ。
   昔は、山越えで方々から人が集まってきた。

今宵夜神楽は 十二の干支(えと)で 飾りたてたる 神かぐら

 今宵夜神楽を せろとて来たが せらにゃそこどけ わしがせる

 わしが歌うたら あの娘が笑うた あの娘可愛や 片えくぼ
 
  *神楽が始まり、進行してゆく。
   氏神が降臨し、神事・直会が行なわれて後半からはセリ歌の時間帯だ。
   鍛えあげた自慢の声が響く。 
   神楽セリ歌は、男組と女組が分かれて掛け合いで歌う恋愛歌である。
   意中の人も御神屋の向こうで歌っている。

 切れた切れたよ 笛の音が切れた 腐れ縄よりゃ 早よきれた

 神楽出せだせ 神楽出せ 神楽出さなきゃ 嫁女だせ

  *神楽は佳境に入り、酒の量も増えた。
   笛の音・太鼓の音が途切れると、客席からやんやの催促がある。
   このころから、セリ歌は猥雑さを加えてゆく。

 今宵一夜は お許しなされ 人のかかでも 殿御でも
 
 開けてみたいのに なぜ奥見せぬ 天岩戸と若嫁女

  *よその若奥さんに手を出してはなりませぬぞ。
   山深い村は、一年に一度の神楽の夜は無礼講・自由恋愛の夜であった。
   歌詞は過激さを加え、その場かぎりのアドリブを交えて、猥褻度を増してゆく。
   この性的な歌詞の乱発が、歌詞の連続性を分断し、
   若いお嫁さんや子育て中の母親たちなどから嫌われて
   神楽セリ歌を衰退へと向かわせる要因のひとつとなった。

 今宵夜神楽にゃ 皆出てござれ 来れば抱え込む 納屋の隅

 俺とお前は 木の根が枕 空にスバル(昴)も昇るころ

 
  *かくして夜は更けてゆく。恋人同士も、一夜かぎりの契りを結ぶ。


 逢うてうれしや 別れのつらさ 逢うて別れが なけりゃよい

 今宵別れて いつまた逢おうか 明けて三月 駒茶時

 それじゃ遅かろ 待ち長ごうござる 木戸の榎の 芽吹くころ

 *夜が明ければ恋人たちに別れが待っている。
  今度、逢えるのは、来年春の馬を引いてお茶の搬出に来る時だろうな。
  いやいや、それでは待ち遠しい。
  せめて木戸の脇の榎の若葉が芽吹く頃には、訪ねて来てくださいね。
 *恋の成就の結末として、この夜に授かった子は、
 「神楽子=神楽の神様からの授かりもの」として村で大切に育てられたという。



  

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(SINCE.1999.5.20)