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森のホタル
<1>



草刈りを中断している。
森のホタル=ヒメボタルが大量に発生し、庭先やわが「九州民俗仮面美術館」の窓辺にまでやって来るのである。
チカチカと点滅を繰り返しながら、草に止まりそうになったり、またふわりと舞い上がったりする。
これはオスである。
ヒメボタルのメスは飛行できないため、草木につかまった状態で発光するという。
そうだとすれば、この辺りの草むらにもヒメボタルがいて、恋愛成就の瞬間を待っているのではないか。
森に幽玄の光を明滅させながら浮遊するのはオスのヒメボタルで、メスを求めて移動中なのであろう。
草を刈ってしまえば、彼らの生殖の場に深刻な打撃を与え、棲息分布に影響を及ぼす恐れがある。
草刈りは一休み。



「森のホタル」と呼ばれるヒメボタルは、陸生のホタルで、日本では本州・四国・九州・屋久島にまで広く分布するという。
八重山地方には ヤエヤマヒメボタル.、石垣島にはイリオモテボタルがおり、南に連なる島々には多くの同種のホタルがいるらしい。水辺ではなく、森林地帯に棲息するため、人目にはつきにくくあまり知られてはいないが、
世界的にみれば、陸生のホタルのほうが分布は多いのだという。
餌はカタツムリ類だというが、こんなに多くのホタルを養うほどのカタツムリがこの森にいるのかどうか、不思議である。以前、カタツムリの仲間のキセル貝の大量発生を見たことがあるが、これもヒメボタルの餌の一つなのだろうか。
キセル貝は、体長2センチほどの細く小さな陸生の巻貝で、森の朽木や落ち葉の下などで発見されることがある。けれども、ホタルの大群を養うほどの分布があるとは思えない。山や森には、まだ多くの不思議がある。
このキセル貝は、熊や猪、鹿などを狩る猟師が「山オコゼ」と呼び、海のオコゼの代わりに山の神に捧げる地方があるという。山の神は女神で、醜貌であるゆえ、自分よりも醜いオコゼをみると上機嫌になり、獲物を授けてくれるのだという。
だが、海のオコゼとキセル貝とは全然似ていない。ここにも一つ、山の不思議がある。



今夜は、仮面美術館の窓を開け放ち、部屋の明かりをすべて消して、ヒメボタルの群舞を見ることとしよう。山の神や水神、神楽の主役や道化、翁、謎を秘めた女面。100点を越える仮面の展示された部屋に舞い込んでくる森のホタルがいるかもしれない。


<2>

 

夕暮れ時、「九州民俗仮面美術館」の周辺の森は、幻想的な光の点滅で彩られる。
「森のホタル=ヒメボタル」が今年も大発生し、群舞しているのである。
陸生のヒメボタルが、このような場所に棲息するわけは、昨年の梅雨に判明した。
彼らの餌となる陸貝「キセル貝」がこの森には群生しているのである。
それが近年の特異な自然現象なのか、昔から繰り返されてきた生態系の一場面なのかは、今のところ分からない。
ゲンジボタルやヘイケボタルよりも小さく、淡い橙色の光をチカチカ、
チカチカと点滅させるヒメボタルもまた、大変魅惑的で、可愛らしい。
少し手を伸ばすと、その森と同化したような暗い空間から、ふわりと舞い降りてきて、指先に止まるものもいる。
今夜も、近所の子どもたちが集まってきた。

 

ヒメボタル(姫蛍)は、清流ではなく、森に棲息する陸生のホタルである。
成虫がよく光るが、それはオスであり、メスは飛行できないため、分布地の移動性が低いという。
源氏ボタルや平家ボタルに比べて一回り小さく、光る速度が速い。
そのため、森の中で、チカチカ、チカチカと小さな明滅を繰り返して見えるのである。
この茶臼原台地の一角、私たちの住んでいる「森の空想ミュージアム/九州民俗仮面美術館」の周りの森には、毎年、このヒメボタルが発生する。森の奥から光り出てきたものが、展示中の仮面の部屋に迷い込んできて、幻想的な点滅を繰り返したこともある。旧・協会を改装した「祈りの丘空想ギャラリー」の周辺で明滅するヒメボタルもまた、美しく、夜の森を飾った。


 鵺の
鵺の来る庭
<1>
早春の庭で




この鳥を、始めてみたのは、早春の午後、穏やかな陽射しが我が家(九州民俗仮面美術館)の前の広場を温めている日だった。
広場の片隅の、畑からこぼれ落ちた米良大根の種が発芽し、半ば野生化した葉を啄ばんでいた。
米良大根は「糸巻き大根」ともいう山地特有の大根で、椎葉では焼畑の野に自生する例もあることから焼畑大根という。
その白い根に薄紫の混じった横輪が巻いており、細切りにして酢に浸すと鮮やかな紫紅色になり、美味である。
この季節、葉もやわらかくてうまい。鳥は、その葉っぱをしきりにつついていたのだ。
鳩やコジュケイ(小授鶏)よりやや小さく、ヒヨドリ(鵯)やツグミ(鶫)よりは少し大きい。
―はて、見慣れぬ鳥だな?
と思ったが、すぐに飛び去ったので、そのまま忘れていた。
数日後、今度は、窓の外の潅木の下にいた。枯葉の色に似た、地味な鳥で、姿はツグミに似ているが、
背中や胸の辺りに縞々の模様がある。やはり、ツグミよりは大きい。
―ウズラ(鶉)かな・・・?
早速、インターネットの「鳥類図鑑」で検索してみると、ウズラは胸毛が白く、九州には分布しないことがわかった。
・・・・・?
正体不明のまま、また数日が過ぎた。
次に現れたのは、中庭の窓の下だったので、良く観察することができた。放し飼いの鶏や、
いまや常連となったツグミ、ヒヨドリ、ジョウビタキなどの餌のおこぼれを狙ってやってくるようになったもののようだ。
「トラツグミではないか!!」
とひらめいたのは、その独特の胸の虎縞を確認した時であった。

<2>
鵺の正体とは




平安時代、宮中の庭に現れて夜な夜な気味悪い声で鳴き、人々を恐怖させたり、森の中で夜中に細い声で鳴き、
山岳修行の修験者・山伏をも「死人の魂が追ってくる」と恐れさせたりした怪鳥「鵺(ぬえ)」の正体が、
スズメ科のトラツグミであることはすでに明らかになっている。

*以下はインターネット辞書「ウィキペディア」による。

[・形態  体長は30cmほどでヒヨドリ並みの大きさ。頭部から腰までや翼などの体表は、
黄褐色で黒い鱗状の斑が密にある。体の下面は白っぽい。嘴は黒く、脚は肉色である。雌雄同色である。
・生態 主に丘陵地や低山の広葉樹林に好んで生息するが、林の多い公園などでも観察されることがある。
積雪の多い地方にいるものは、冬は暖地へ移動する。
・食性 雑食。雑木林などの地面で、積もる落ち葉などをかき分けながら歩き、土中のミミズや昆虫類などを捕食することが多い。冬季には、木の実も食べる。
・繁殖形態 卵生。木の枝の上に、コケ類や枯れ枝で椀状の巣を作り、4-7月に3-5卵を産む。
・鳴き声 「ヒィー、ヒィー」「ヒョー、ヒョー」。地鳴きは「ガッ」。主に夜間に鳴くが、
雨天や曇っている時には日中でも鳴いていることがある。
・古来、「鵺鳥の」は「うらなけ」「片恋づま」「のどよふ」という悲しげな言葉の枕詞となっている。トラツグミの声で
鳴くとされた架空の動物はその名を奪って鵺と呼ばれ今ではそちらの方が有名となってしまった。]

以上のごとく、古来「妖怪」「怪鳥」の扱いを受けてきた「鵺」だが、実際にはトラツグミという鳥の鳴き声であった。トラツグミとは、前述のようにツグミ、ヒヨドリの仲間の普通の鳥である。が、その身体を覆う虎縞模様は地味で、地面に近い潅木の下や草藪の陰でひっそりと暮らし、その活動は朝夕や夜、雨模様の薄暗い日などであるから、その姿が目撃されることは少ない。
実態の知られていない鳥の一種であるといえよう。


<3>
トラツグくんと名づけた
トラツグミ(鵺=ぬえ)という鳥は、怪鳥でも珍鳥でもなく、ただ地味で目ただない鳥のようだ。
今朝は、我が家の玄関の前の木材の上に止まり、石井記念友愛社(石井十次が開設した児童擁護施設。100年の歴史をもち、現在も約50人の児童たちが暮らす)の子供たちが近くの小学校へ通う列を見送っていた。
その栗の木の株のぽこりと盛り上がった瘤の部分と見間違うほど地味な色であり、虎縞のまだら模様であった。
その特性を生かして、「化ける」こと、すなわち擬態は彼の得意技のようだ。このシリーズの最初に掲げた写真は藪の中の落ち葉と枯れ木の枝に隠れてじっと私の方を見つめていた。次の写真は、カメラを構えた私を警戒して、少し向きを変え、じっと固まってしまった。センダンの古木かヒサカキの根株に化けたつもりらしかったが、その先は空き地なので、逆光が彼の姿を浮き彫りにして、姿を隠したことにはならなかった。自分の技=擬態に自信がるのか、少し間抜けなのか。
次の写真も、少し前方の枝でじっと動かず、目だけをこちらに向けて固まっている。なんとなく、愛嬌のある鳥ではないか。
「鵺」などという不気味な名を冠せられるのは気の毒ではないか。
私は彼に「とらつぐクン」という名を付けて、私たちの仲間に加わってもらうことにした。今、この森には、うるさく騒ぎ立てるヒヨドリや、キョッ、キョッと静かに潅木の間を滑空するツグミ、小さくお辞儀をしながら出てくるジョウビタキ、藪の中で笹鳴きを繰り返しているウグイス、椿の蜜を吸いに来るメジロ、若葉の季節になれば高い木の梢で鳴き交わすイカルなどが来ている。
高い空を飛翔するハヤブサの姿も時折見られる。
とらつぐクンがこの森の住人として居てくれるのは、彼と彼の仲間が、高山の森の中へと帰って行く4月頃までのわずかな期間だと思われる。はたして、この生態が良く知られていない鳥を観察してみる機会になるかどうか。


<4>
トラツグくんの一日

我が家の近辺に住み着いた、とらつぐクン(トラツグミ=鵺と呼ばれる)の習性が少しずつわかってきた。
ヒヨドリ、ツグミ、トラツグミがほぼ同じ仲間で、似たような姿をしているが、その習性はやや異なる。
ヒヨドリは、木立や庭木のやや高い部分の、一本の木でいえば下から三分の二ほどの位置にいて、騒がしく鳴きたてたり、時折り首をかしげては、枝から落ちそうになるほど、地上を行き来する猫や犬や人間などを観察しているかと思うと、つい、と飛び立って、くい、くい、と空中に波状の曲線を描きながら次の枝へと移動する。三羽、五羽と群れてやってくる場合もある。
椿の花の蜜を吸いに集まるメジロなどを追い散らすヒヨドリが「庭のギャング」と呼ばれて嫌われるのに対して、ツグミは、一羽だけでやってきて、おとなしく地面の虫や木の実などを啄ばんでいる。主に潅木の下をさあっ、と音もなく飛び、移動する。
今から半世紀も前のことだが、筆者小学6年の時、同級生たちと一緒に学校の裏山に小鳥罠をかけてこのツグミを生け捕り、教室に放し飼いにしていたことがある。20羽ほどの小鳥が教室中を飛翔するさまは圧巻であった。
校長先生や教頭先生の苦りきった顔を無視してそれを許可していた担任の先生もまた、今思えば豪胆であった。
ツグミは、目だった特徴のない灰色がかった地味な鳥だが、下腹辺りに白毛があり、飛ぶ時にそれが後ろ姿をわずかに装飾する。潅木の中を下枝から下枝へ、ひそやかに飛ぶ。人を恐れるふうもなく、
垣根がわりに植えてあるヒサカキの枝を伝って後を追ってくることもある。



トラツグミのとらつぐクンは、ツグミに比べてもっと地味で、控えめな性格である。
体型もツグミよりもややふっくらとしていて、ミミズや昆虫など、地面の虫を好んで食べるようだ。落ち葉をくちばしでくわえてひっくり返しては、つん、つんと啄ばんでいる姿が見られる。近づいても、慌しく逃げるわけではなく、木の株や堆積した落ち葉に隠れるようにして、じっとこちらを見ている。身体全体に散らばる虎斑模様を用いた、得意の擬態である。本人は忍者のように土遁の術や木の葉隠れの術を使っているつもりらしいが、こちらからはちゃんと見えている。ちょっと間抜けというか、飄軽というか、のんびり屋というか、憎めないところがあるではないか。逃げる時は、ふわりと飛び立ち、地面すれすれを飛び、また地面に降りる。
このトラツグミが、その姿「頭が猿、体は狸、尾は蛇で、手足が虎のごとし」(平家物語)、
「頭は猿、体は虎、尾は狐、足は狸」(源平盛衰記)とされ、その鳴き声は「聞くものの心を蝕み、
取り殺し、その魂を喰らい、暗雲に乗って空を駆け、凶事をなす」と恐れられた「鵺(ぬえ)」
という妖怪にされてしまったということと、彼の生態とは結びつかない。

ある一日、桜の花が咲き、その花びらが風に舞い、地面にはスミレの花が点々と紫の色を散らしている広場で、
終日、とらつぐクンが餌を拾っていた。近づいてもあまり遠くへは逃げずに、一心に地面をつついている。
虫が大量に発生しているのか、それとも風に飛ばされてきた桜の花びらを追っているのか。
のどかな昼下がりであった。

<5>
トラツグくんは何処へ

トラツグミのとらつぐクンの仲間を見つけた。
古い教会を改装した「祈りの丘空想ギャラリー」の隣地の畑の中である。
そのトラツグミは、我が家の周辺をテリトリーとして住み着いた「とらつぐクン」とは違う個体らしい。
近づくと、すぐに飛び立って、西側の杉木立から竹やぶへと続く森の中に逃げ込んだので違いがわかるし、私はすぐに引き返して家の前の広場でのんびりと餌を啄ばむとらつぐクンを確認したので、彼らが別々の一羽だということは間違いない。
ツグミは広大な茶臼原台地のあちこちに住んでいるが、いずれも、一羽ずつのテリトリーを形成し、それぞれの勢力圏には入りこまないように心がけながら生活しているようだ。トラツグミも同様の習性を持っているのだろう。



我らがとらつぐクンは、近辺の住人にもなじんで、
「とらちゃん」とか、「とらクン」
などとそれぞれの愛称で呼ばれ始めている。
うちの85歳の母などは「トラや」と、まるで猫にでも呼びかけるようにその名を呼び、
畑仕事の手を休めて切り株に腰掛け、眺めているのだ。
要するに、トラツグミは鵺などという妖怪とはほど遠い、地味で控えめで、
少し臆病なところもあるけれど、ごく普通の野鳥なのだ。

数日、そのとらつぐクンの姿が見えなかった。
それで、私は、
―ああ、とらつぐクンも山へと帰る季節がきたのだろう・・・
とか、
―そろそろ山へ帰って、パートナーを見つけて子作りを始めるのかな・・・
―そして、あの、山伏・修験者さえ恐れるという、不気味な鳴き声で人々を苦しめるのだな。
などと思っていた。



ところが・・・
昨日、うららかな春の陽射しが降り注ぐ木立の下で、散乱した羽根が見つかったのだ。
不吉な胸騒ぎがして、私はしゃがみこみ、茶色の羽根や綿毛を手に取ってみた。
すると・・・
なんと、それらのちぎれた羽根やふわふわの胸毛と思われる小片には、あの、見慣れた虎斑模様が付いているではないか。
―殺られた!?
―あの、野良猫のしわざだな。
無残な殺戮の現場は、周辺に棲み着いている野良猫の一匹が、うらうらと春の陽射しを浴びながら
昼寝をしているようふりをしながら、その銀色と青とが混じった目を細く開いて、獲物を狙っていたポイントであった。
そしてそこは、とらつぐクンが飛来し、ぽつりぽつりと餌を拾いながら移動する小道でもあった。
ああ、
とらつぐクンは猫の餌食になったのだ。
しかし、これもまた、自然界の厳しいいとなみのひとつなのだ。
つい先日、子猫を六匹も産み落とした猫も、狩をして食を得ることが、繰り返される彼女の日常なのだ。
六道輪廻。
―とらつぐクン、さようなら。
―ちょっと淋しいけれど、君がふるさとの山へ帰ったのだと、俺は信じておくことにするよ。

虎斑の羽根ときれぎれの羽毛と、少し血の混じった土を、私は手で掬い取り、
いつも彼が来ていた、椿の大木の下にそっと置いた。
その色は、椿の落花と同化して、ただの花びらのように見えた。




                       

                 [再生する森]

                「小さな焼畑」
                      <1>火の祭儀

 「森の空想ミュージアム/九州民俗仮面美術館」の前の森が切り払われて、明るい光が森に注いでいた。2009年に石井記念友愛社の一角に開館する「茶臼原自然芸術館」の建設資材として、杉材が切り出されたのである。この杉は、今からちょうど百年前、この地に入植し、福祉と芸術の融合する理想郷づくりを目指して「友愛社」を設立した石井十次とその仲間たちが植えたものである。百年の杉は見事な年輪を見せながら、運び出されて行った。杉が切り出されたこの森には、今後、山桜や檪、欅、榛の木、栴檀などが植えられ、自然に生えてくる植生とあわせて、染織の素材や薬草、木の実などが採集できる森へと再生する取り組みが始まる。その第一段階として、小さな「焼畑」をした。「焼畑」は切り払われた山に火を入れることによって枯れ枝や草などを燃やし、害虫を駆除し、その灰は肥料になり、地力が回復する合理的な農法である。

  
まず、地面を整地し、火を着ける。この時、日本で唯一、古来の焼畑を伝える椎葉村では、「このヤボ(薮)に火を入れ申す、蛇やワクド(蛙)、虫どもは立ち退きたまえ」と唱え、山の神様に挨拶をする。自然とともに生きる敬虔で美しい山人の習俗である。この日は、私(高見)もこれにならい、神楽の時に貰ってきた御幣を立て、心の中で山神に挨拶をした。火は、風下から入れる。パチパチと音を立てて火が燃え広がってゆく。
           
 私の母は、今年80歳だが、まだ元気で、家事や野菜作りなどを手伝ってくれている。今回のこの焼畑は、母との共同作業なのである。若い頃、夫(私の父)と一緒に焼畑を経験したことがある母は、今回の作業を楽しみに待っていた。母にとって四十数年ぶりの焼畑がこうして始まったのだ。野に立つと、80歳の媼はなかなかサマになり、堂々とした仕事ぶりをみせてくれたものである。
           
 父と母の最後の焼畑の時、私は中学一年生で、一緒に山に入った。とくに仕事は与えてもらえなかったが、一人で尾根から尾根へと走り、火を入れ、また次の山の峰へと移動して迎え火を放つ父の姿は、まるで火を自在に操る「火の神」あるいは「山の神」のようにみえたものであった。今回の焼畑では、その時の経験をもとに作業を進めた。風下から火を着け、風の方向を見ながら、徐々に火を拡大してゆく。そして、頃合を見て、風上から迎え火を入れる。ごう、と燃え上がった火が、焼畑の中心地点で出会い、さらに大きな炎となって燃え上がる。それが焼畑のクライマックスで、山に生きる男たちが伝える「火の祭儀」のようにも思える瞬間である。
                            
 面積50平方メートルほどの、家庭菜園ほどの焼畑は、無事終わった。これから、ソバの種を蒔き、75日目には収穫し、次に焼畑大根を蒔く。二年目には、小豆や大豆などの豆類を蒔き、里芋も植える。こうして、地力の回復と歩調を合わせながら栽培作物を選び四年から7年の周期で耕作地を移動するのが焼畑である。このころ、植生が回復され、植林された杉や桧などが順調に育って、豊かな森となるのである。この森では、最初に述べたように、多様な樹種が混生する森を育ててゆく予定である。
 この「再生する森」のコーナーでは、その過程を詳細に記録したい。


             <2>焼畑と光合成の関係について

 
ここで、焼畑や焚き火の煙と環境問題について、初歩的な議論を一席。
 現今、庭での焚き火や、日本古来の農法であり、アジアにも残存する「焼畑」に対して、二酸化炭素を排出して、地球環境に害をなす、という批判が相次いでいる。私の中庭での焚き火や今回の焼畑にも同様の批判が寄せられることがある。が、私は、そのような人々に対して、植物は有機物が排出する二酸化炭素を葉から吸収し、光合成を行うことで、酸素を排出する。植物が排出する酸素によって、私たち人間を含めた地球上の生物が生きて呼吸し生存しているのだ、これは小学校四年生か五年生の理科で勉強した程度の問題だ。と反論する。すると多くの人が、あ、そうだった、というような顔をして、頷くのである。
 念のため、インターネットフリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)で、「光合成」を検索してみた。結果は以下のとおりである。
 ■光合成(こうごうせい/ひかりごうせい、:photosynthesis)とは、主に植物や植物性プランクトン、藻類など、光合成作用をもつ生物が行う、光エネルギーを科学エネルギーに変換する生物化学反応のことである。光合成生物は光から変換した化学エネルギーを使って水と空気中の二酸化炭素から炭水化物(糖類:例えばショ糖やグルコースや澱粉)を合成している。また、光合成は水を分解する過程で生じた酸素を大気中に供給している。(中略)光合成では水を分解して酸素を放出し、二酸化炭素から糖を合成する。光合成の主な舞台は植物の葉である。[光合成1]
 以上により、私の嫌いだった理科の勉強はまったくの徒労でなかったということがわかり、現代の環境問題の基礎知識には誤りがあるということがわかったのである。なお、二酸化炭素が供給されなければ、植物は枯死する。また、植物が燃えた後、熾火が残るが、この時点で酸素の供給を止めると、「炭」が残る。これが、植物が一生かかって貯蔵した「二酸化炭素−酸素=一酸化炭素(炭)」なのである。焼畑で生じた炭や灰は肥料となり、燃焼によって放出された二酸化炭素は再び植物に取り込まれる。じつに玄妙なる自然界の循環のシステムではないか。

              m mm
                                    ■伐採されずに残った樫の木に御幣を立てて。
            
                            ■焼かれた後の黒々とした土の上にソバの種を蒔いてゆく。三日目には芽を出した。


              <3>戦闘機の飛ぶ空の下で

 前記・インターネットフリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)の「光合成」の項では、「年間に地球上で固定される二酸化炭素は約1014kg、貯蔵されるエネルギーは1018kJと見積もられている。」と続けられている。数字をみただけではなんのことかわからないが、地球上では、人間が生活上排出する二酸化炭素の総量が大幅に貯蔵許容量を上回り、地球の環境・生態系に悪影響を及ぼし、ひいては人類の存亡に関わる問題にまで進展しているということは、わかる。すでに小学生でも知っている21世紀の共通認識といえよう。環境教育の必要性が叫ばれ、市民生活でも、ゴミの分別収集や焚き火の制限など、多くの取り組みがなされている。私も、中庭でのささやかな焚き火にさえ気を使い、ビニールやプラスチックなどの科学製品が混入しないよう、配慮する。自動車産業を筆頭とする企業も、存続をかけて環境問題に対応する製品の開発に取り組む。国家レベルでの環境会議も開催される。それらは、大変結構なことで、ますますその精度を上げ、熱心に取り組んでいかねばならないと私も思うのだが、ここにひとつ、見落とされている重大な問題点がある。それは、人類が行う「戦争」によって消費されるエネルギーの計算と、そのことによる環境への影響度のことである。ここはソバ畑だから、多くのことを言うのはやめよう。一発の弾丸が発射されるたびに火薬が消費され、爆弾が落とされ、火災が起こり、油田が爆破される。 一回の戦争で費やされるエネルギーと排出される二酸化炭素の量はいったい、どのくらいになるのだろうか。このことを計算したり研究したりした学者も環境保護団体も政治家もいないのだろうか。私はそのことが不思議なのだ。戦争にはそれぞれの理由があり、当事者はそれぞれの正義を掲げて闘う。私の友人の画家は、「かつて正しい戦争などなかった」と言ったが、現代の戦争は、もはや「敵」だけではなく、「味方」をも、すなわち人類そのものをも滅ぼす次元の段階に至っているということを自覚してはいないのだろうか。この森の近くには航空自衛隊の基地があるので、しばしばソバ畑の上空をジェット戦闘機が低空飛行する。現時点では、私はそのことに対して意見を申し述べる機会も権限も有しないので沈黙を守るしかないが、爆音を聞くたびに、私は空を見上げ、嘆息するのである。

               3333333333333333    uuuu
■焼畑を終えた斜面に蒔かれたソバは、三日目にははやくも芽を出した。そして一斉に芽吹き、その薄赤い茎をすいと延ばして、朝は東にその葉を向け、夕方には西へと傾けて、太陽の光を懸命に吸収しようとするのである。 二週間が過ぎたころ、台風がきた。はらはらしながら夜を過ごし、翌朝、真っ先にソバ畑へ行ってみると、吹き飛ばされてきた木の枝の下敷きになって倒れたものはあったが、大半の若芽が無事だったのでほっとした。倒れたものも、三日後にはしゃんと起き上がり、中には小さな蕾をつけているものさえあった。一ミリあるかなしかのか細い茎は、強靭な生命力を秘めていたのである。


              <4>中国・少数民族の村のソバ畑

 最初の焼畑から一週間が過ぎた日に、宮崎市佐土原町から鈴木遼太朗君が来た。遼太朗君は今中学一年生でサッカー部に入り、練習に明け暮れているので、なかなか来れないが、去年までは休みのたびに来て、美術館作りを手伝ってくれたり、一緒に山女魚釣りに行ったりした。最初は館内を全速力で走り回るただのやんちゃ坊主だったが、自然の中での生活や渓流を分け入る釣行などで、逞しく、礼儀もわきまえた少年に育った。焼畑では、火入れの前の防火線作りから火入れへと進む作業を手際よく進めてくれた。しかしながら、この日は朝まで雨が降っており、枯れ葉や草は湿っていたので、煙がもうもうと上がるばかりで燃えなかった。この日の焼畑は失敗であった。
 翌日、よく乾いた頃合を見計らって火を入れると、たちまち燃え上がり、燃え尽きた。
 それから五日ほど後、水俣市から川部岬さんが手伝いに来てくれた。川部さんは、「自然布」などの染織の勉強に通ってきている人である。この日も順調に作業は進み、都合三ケ所の焼畑・ソバ畑が出来た。そして、それぞれの畑に蒔かれた種子は直ぐに芽を出し、成長し、花を咲かせた。私は、毎日何度もソバ畑へ通い、その様子を飽かず眺めるのである。

        

 中国四川省成都市の北方、揚子江の源流のひとつともいわれる「泯江」中流部に住む少数民族「羌(チャン)族」の村を訪ねた時のことである。川添いの道を遡上していて、ソバ畑を見つけた私は、思わず大声をあげて車を停車させ、走ってそこまで引き返し、畑の縁に立った。それは、日本ソバの純白の花とは違って淡紅色の花だったが、茎や葉は、まぎれもなくソバのものであった。標高二千メートルの山里に咲くソバの花と、その向こうを流れ下る泯江の水流、真っ青な空の色など、忘れがたい旅路の風景である。。
 羌族は、古代中国では中原の北西に居住した遊牧民族で、中原で政変が起こるたび、亡命してきた貴族や武将を受け入れたり、歴代の王朝と婚儀を結んだりした。山岳に依拠し、男は精悍だが心やさしく、女は美女揃いであった。この羌族は、次第に漢族に圧迫され、西へと民族移動を繰り返し、現在地に住むようになったのである。彼らは、険しい山岳に石を積み上げて家を築き、その家と家は連結されていて、数百戸の家が城砦のような構造をなす。集落の中心に広場と高い石の望楼が築かれる。この美しい石の村で、二千年以上の歴史を彼らは刻んできたのだ。
 羌族の村を訪ね、村長の孫娘という端麗な美女に案内されて集落を巡った時、一軒の家の軒先に、石臼が置かれているのを見て、私はまた感動した。それは、私が子どもの頃、ソバ畑で収穫したソバを挽いて粉にした、あの石臼とまったく同じ構造のものであった。背後に聳える泯山山脈には野生のパンダが棲み、その泯山山脈に連なる山脈の一つから流れ出る大河・金沙江の流域は黄金の産地で、黄金の仮面や四メートルもある青銅仮面の出土した古代の遺跡「三星堆」を擁する。
 この美しい羌族の村は、2008年の4月、四川省を襲った大地震によっ壊滅状態となった。刻々と流されるテレビのニュースを見ながら、私はあの美しいソバ畑と石の村と、村長の娘を想い浮べた。もう、この世に、あの村は存在しないだろう。繰り返される自然災害が、人間による過度の浸食に怒った地の神の警告だとしても、それはなんと厳しく、容赦のない一撃であることだろう。

            
           

                    <5>幻の村

 中国四川省の少数民族「羌(チャン族」の村では、美しい村長の孫娘が、その迷路のような石作りの村を案内してくれた。古代中国の英雄のように、美女を娶って幸福に暮らし、やがて復権へ向けて故郷へ凱旋するというような絵に描いたような図式にはならないだろうが、もしも許されるなら、私はこのままこの村にとどまり、静穏に残りの人生を送りたいとさえ思ったものだ。そのころ、私は、「由布院空想の森美術館」(1986−2001)を閉館し、宮崎県西都市へ移り住んだ後、友人が経営する旅行会社の仕事を兼ねてアジアの村を訪ねる旅を続けていたのであった。その旅は、見るもの聞くものすべてが珍しく、刺激的で感動に満ちた旅だったが、私の胸には、癒しがたい傷痕が疼いていた。
 村の中央部にそびえる高い石の塔に上った後、村長の孫娘は、自分の家へと私を案内してくれた。そこには、石で囲まれた広い居間があり、中央正面の壁に大ぶりの鬼の面が飾られていた。それは、すでに使われなくなって久しい追難(ついな)の面であった。その鬼面の前で、村の女たちが羌族に伝わる優美な踊りを踊り、私を歓迎してくれた。そのとき、激しい爆竹の音が響いた。村中に響き渡り、石の家々を揺るがすようなその音は、中国の旧正月「春節」を祝うものであった。
 地震で壊滅したと伝えられたあの村は、半年を経過した今、復興への道を進んでいるだろうか。村長の孫娘や村の女性たちは、男たちが築く砦のような石の家へ向かって、一個ずつ、小さな石を運んでいるだろうか。

            

                 <6>再び光合成のこと

 ソバ畑に行くのが楽しみである。なにしろ、家から100メートルほどの距離だから、散歩を兼ねて一日に何度も出かけるのである。ソバの花が満開になったころから、さまざまな虫たちが集まってくるようになった。蜂だけでも、十種以上を数えたし、蝶もシジミ蝶の仲間やモンシロ蝶、アゲハ蝶など、やはり十種以上が飛んでいた。もう渡りの季節を過ぎたはずなのに、こんなに多くの蝶が晩秋の森に残っているのが驚きであった。蜂は、蜜を集めるミツバチだけでなく、黒い蜂やスズメバチなども集まってきている。彼らは、勤勉なミツバチと違ってただ蜜を吸うだけの目的でやってきているもののようだ。じっと耳を澄ますと、無数の羽音が聞こえる。米良の山脈が、遠くに霞んでいる。

 ところで、この連載を読んだ方から、メールをいただいた。「光合成」の理論に対する補足というべき指摘である。以下に転載する。

 『確かに、植物は光合成をしているしそれによって二酸化炭素を吸って酸素を吐き出している。けれど、夜など日光のない時は、人間と同じように呼吸をしている。つまり、酸素を吸って、二酸化炭素を吐いている。量としてはまだ、酸素を吐くほうが多いみたいだけど、植物は、自分の持ち分だけで、結構、酸素と二酸化炭素のやり取りをしてしまっているわけだ。光合成は、太陽の力だから、夏がやはり多いようだけど、最近、比較的多いはずの春・秋で、秋の光合成が少ない(つまり二酸化炭素吸収量が少ない)ということも分かったとか。植物は、二酸化炭素を消してしまう訳ではなく自分の体や地面に取り込んで固定しているだけだからその植物が枯れるか、燃やせば、もちろんまたそれらは地上に出てしまう。地球環境問題に寄与するには、かなりの森林とか樹木が必要なわけだが、それも、育つと、あまり二酸化炭素を吸収しないそうだ。朽ちて、土に帰れば、その時点で二酸化炭素は土壌に戻る、とか、刈って、なにかに変換した(わらとか)を燃せばまた吸収したはずの二酸化炭素は、地球上に戻ってしまう、など・・・』


 以上、理科オンチを名乗る人から、焼畑に対して反対意見を唱えるわけではないが、この程度の光合成理論は頭に入れておかないと、批判されたときに対応できませんよ、という親切な助言であった。
 なるほど、なるほど。
 理科の時間に家の裏の柿の木に登り、柿の実を頬張っていた、理科嫌いの私が習った半世紀前の小学校の理科の勉強レベルから、21世紀の環境科学は進化しているということのようだ。要するに、植物による二酸化炭素の排出と吸収のバランスは、かぎりなく差し引きゼロに近い状態、ということらしい。忠告を下さった方も、正しい認識を共有した上での環境論議を提唱してくれているわけだ。
 どうもありがとう。これで理科の勉強から逃げ回っていた私も、現代の光合成理論を身に付けることができたようだ。
 そのうえで、こう考える。
 焚き火や焼畑による二酸化炭素と酸素の排出・吸収の量が差し引きゼロか、やや酸素の排出量優位のレベルにあるということならば、やはり、焼畑の効用は、荒地で放置されるよりも森の整備が進むとか、蜂や蝶やカナブンなどの昆虫類がソバの花に集まり、それを狙った鳥たちがやってくるという本来の森の姿を取り戻し、それを眺めに通う私たちの心を癒し、豊かな気分にしてくれ、さらに美味なる味覚を収穫できるなど、多方面にわたる。焼畑は自然科学的農法であり、自然と人間とのかかわりを学ぶことのできる豊かで美しい農業である、と。
 まあ、まあ。
 そんなに力まなくてもいいではないか。焼畑のソバ畑は、今日も虫たちの楽園だ。来るべき冬に備えて、彼らは一心に蜜を集めている。上空を鷹が旋回している。

         

         



                      <7>花酒


 ある一日。「花酒」の瓶を抱えて、森へ行く。
 「花酒」とは、焼酎(ホワイトリカーが良い)に花びらを漬け込んだだけのものだが、半年を過ぎると、花の蜜が溶解し、花びらの色が酒にほのかな彩りを添えて、極上の酒となる。たとえば、薮椿の花びらを漬け込んだ酒は、濃密なブランデーのように、四月の深山に咲く黒文字の花を採集し、漬け込んだものは、ポーランドのウォッカ「ズブロッカ」のような香りと味に。そしてソバの花の「花酒」は、北の海を眺めながら飲むスコッチのように。ただの花びらと無色・無臭・透明のホワイトリカーが、変身を遂げるのだ。


 この花酒の作り方は、湯布院で「空想の森美術館」を運営していたころ、ある画家から教わった。画家は、自宅に一升瓶50本分を越える花酒を貯蔵していると言っていた。画家の奥さんは、かつて「前衛」でならした女流画家だったが、末期の癌に冒され、闘病中であった。私は、老画家が、奥さんの口にほんの少しずつ、季節ごとの花酒を運びながら、その行為自体が病魔を調伏する呪法であるかのように、過ぎ去った二人の時間や、多くの出来事などを眼前に描き出しているのだろうと空想した。そしてそれはなんと甘美で美しい時間だろうと思ったものだ。以後、私も花酒を作った。そして遠来の客や美術論を語り会う仲間などに振る舞った。世界中を演奏旅行で巡っているビオラ・ダ・ガンバの奏者が、花酒を飲みながら演奏し、こんな美味い酒は世界のどこにもない、と嘆息した時など、無上の幸福感に酔いしれたものだ。
 
 湯布院から宮崎へと移転してきて、訪ねて来てくれる客は減ったが、私は花酒の数を増やし続けた。小さな瓶も含めると、その数はすでに百本を越えた。今日、持ち出してきたのは、米良の山から頂戴してきたソバの花を漬けたものだ。米良山系の一部と椎葉の山には、今も焼畑が残り、ソバが栽培される。私の小さなソバ畑からも米良の山脈が見える。蜂の小さな羽音が聞こえる。ソバの白い花に埋もれて、まずは一杯。琥珀色の酒が舌を転がり、喉に落ちてゆく。



                  <8>アジアの辺境で

                       
―ゴールデントライアングルの焼畑―

 象に乗って、峠を越えた。タイの山岳民族の村を訪ねる旅の途上であった。象は、メコン川の支流を一時間ほども小さな船で遡上した川沿いの村で飼われていて、仕事がない時には、付近の山で草を食べたり、川に入って泳いだりしていた。客があれば、背に乗せて悠然と山を越える。かつては熱帯雨林に覆われていた山は、繰り返される木材の伐採によって、草地の多い平坦な山容となっていた。それでも、道が奥山にさしかかれば、密林の中をトンボに似た蝉が飛び、小さな村が見えると、その周辺から立ち昇る焼畑の煙が見えた。広大な山は、焼畑をしなければ、たちまちジャングルとなり、人が踏み込むことは出来なくなるという。焼畑は、細々と暮らす村人の生活を支えながら、この地域の生態系を維持しているのであった。
 豊かな森で暮らしていた象は、森から樹木が切り出され始めると、その運搬に使われ、樹木が切り尽くされると、観光客相手の送迎手段としてしか生きる道はなくなり、きわめて不自然な生き方を強いられている。象使いの老人は、「この仕事がなくなれば、象も私たちも生きていく場所さえなくなるのです」と複雑な表情で彼等の置かれている現状を語った。
 タイ・ラオス・ミャンマー三国が国境を接する地域(中国雲南省とも近接する)は、かつてゴールデントライアングル(黄金の三角地帯)と呼ばれ、麻薬の栽培地帯として世界にその名を知られた所だ。各国政府の徹底した取り組みによって、現在は麻薬の栽培や取引はほぼ根絶し、かつて地下組織が張り巡らされ、非合法の暴力集団が暗躍した森や山は、果樹やコーヒー、お茶などの栽培地帯となっている。ゴールデントライアングル地点という場所さえあり、そこに立てば、メコン川に面した三つの国を同時に眺めることができる観光スポットになっているほどだ。ただそれは、うわべだけのことかもしれない。ウーロン茶とコーヒー豆を栽培する小奇麗な村には、NGOの名を借りたキリスト教の布教集団が入っていて、小さな教会があり、その土地に伝わる古い民俗・文化は姿を消していた。翌日、訪ねた村は、まだ電気も通っておらず、家屋は屋根も壁も床も竹で出来ている原始的な生活形態を残す村だった。少女は全裸で水浴びをしていたし、村の女は、足踏み式の籾すり機で脱穀をしていた。男たちは出かけていて、村の周辺からは焼畑の煙が立ち昇っていた。そして、そこから先は、私たちが踏み入ることは出来ない場所であった。その風景を、私は美しいと感じたが、それは通りすがりの旅人のひとときの旅情にすぎない。私は、国道沿いの古道具屋で、明らかに麻薬の吸引具とみられる象の形をした陶器を、土産に買ったりしたのだ。ひとたび、山を越え、隣村に入れば、そこは軍政下にあるミャンマーである。その村では古い仮面を使った祭りが続けられているという。が、連れて行くことはできるが帰れるかどうかは保証しない、と、案内者は言う。アジアの辺境の村で、今もなお続けられている「焼畑」やその周辺の民俗を、文明の側から眺めるだけでは、その実態を理解することは不可能であろう。

                        

癒しの森の出会い/妖精からの贈り物」
ー吉本有里コンサート&ワークショップー
 
2007・7月29日〜30日
森の空想ミュージアム周辺の森と中庭にて
大好評にて終了。この企画は、お申し込みがあれば随時開催します。


<プログラム1 森の夏合宿>

     さあ、お散歩。森の中へ。
          *
夏休みの真っただ中。どっぷり自然につかって時間に追われず、のんびりまったり。今回は主会
場となる「森の空想ミュージアム/九州民俗仮面美術館」に宿泊し、夜の探検、花酒を酌み交わ
しながらのおしゃべり会など、翌日のワークショップとコンサートにそなえてゆっくり過ごしま
した。
アーティストの吉本有里さんも合流、館内にある五右衛門風呂を体験したり、夜の森を探検した
りしてたりして、楽しみました。
*参加費 大人3000円 子ども2000円(一泊二食)


           夏の夜の楽しみ/焚き火や花酒を囲んで

<プログラム2 アートワークショップ>

愉快な森のアートでみんなつながろう。大きなくすの木に抱かれた仮面美術館の中庭や周辺の森
などで、大きな布や紙、流木、石などを使って思いっ切りアートしました。とろとろ溶けた絵の具、
木や竹を利用した筆。心も体も解放して、自由に心に感じたままを表現。
*参加費 大人も子どもも一人1000円・幼児は無料(この時間は、大人も子どもの心に帰っ
て絵筆を握ります)





<プログラム3 森のお昼ごはん>

*参加費 大人一人1000円 子ども一人500円(幼児は無料)
手焼のパン、天然ヤマメのスープ、夏野菜のシチューなど、新鮮な素材を使った
メニューが楽しみ。


<プログラム4 吉本有里コンサート
    妖精からの贈り物
    ―新しい出発/うた・バイオリン・お話し―>

2007年12月、長野県高遠にある有里さんの自宅が火災で全焼。二人のお子さんは無事でしたが、
愛するパートナーの誠さんや大切な楽器・cdなどのすべてを有里さんは失いました。それでも
彼女はやさしさをもち続け、その魂を音楽を通したメッセージとして伝え続けて、私たちに勇気
を与えてくれています。有里さんのこの旅は、彼女の新しい出発の旅でもあります。困難を乗り
越えて進もうとする有里さんの歌が参加者の心にしみました。


   吉本有里コンサート/美しい歌声が森に響いて

◇会場は森の空想ミュージアム/九州民俗仮面美術館の中庭や周辺の森です。
◇この企画は、母乳による子育ての会「宮崎おっぱい会」と平和台の森から宮崎の
「アート」と「食」と「もの作り」の情報を発信する「ひむか村の宝箱」のご協力により開催されました。



                                         

Copyright(C)1999 by the YUFUIN FANCY FOREST MUSEUM OF ART
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◆リンクについて、非商用目的なものに限り自由です。リンクを張られる際は
takamik@tea.ocn.ne.jpまでご一報ください。編集・高見乾司
(SINCE.1999.5.20)